【池田大作の履歴書】かつては高利貸しの営業部長だった…神格化のために行われた大袈裟な演出とは

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金融取り立てで辣腕

 創価学会に入信し、戸田と出会った池田氏は、やがて権力への階段を駆け上がっていく。

 大蔵商事──現在の池田氏を語る上で、避けて通ることのできないキーワードである。当時、戸田が自分の愛人らを役員に据え、小口金融、今でいう消費者金融の大蔵商事を設立、ここでメキメキ頭角を現したのが池田氏だったのだ。

 池田氏は、この大蔵商事営業部長という職をきっかけに一気にそれまでの貧困から抜け出し、創価学会第3代会長への道を突き進み始めるのである。

 創価学会元教学部長の原島嵩氏が振り返る。

「大蔵商事というのは、今のサラ金の原型とでもいうものです。利回りがいいという売り文句で資金調達をし、それを貸し付ける。貸付先の多くは個人、会社もあったようですが、いずれにしても学会員たちでした。彼はそこで、資金調達や取り立てに辣腕を振るい、やがて学会を資金面で牛耳っていったわけです」

 どの世界でも、財布の紐を握るものは一番強い。

 小川頼宣・創価学会本部元広報部副部長がいう。

「戸田城聖第2代会長は金の面は自分で何とかしようとして、大蔵商事など金貸しや信用金庫などを随分とやったんです。その尻拭いと言うか、酷な言い方をすれば金貸しの手代をしていたのが池田大作です。彼も当初は好きでやっていたわけではないと思うのですよ。しかし、彼には才能があったようで、池田が“ここ金あるよ”という家には、見た目は貧乏な家でも必ず金があった、ということを古参の幹部から聞きました。逆に門構えの立派な家の前で“ここはどうだ?”なんて聞いても、池田が“ここにはない”と言えば、その通りだったそうです」

 先の池田氏の小学校時代の同級生は、大蔵商事に入った頃の池田氏をこう語る。

「昭和25年に池上でやった最初の同窓会に現れた時だったな。あの時のことは今でも忘れられない。昭和17年卒業組は今昔会という同窓会を開くんだけど、その時、池田は遅刻してきた。同窓会に顔を出したのは後にも先にもその時だけだよ。遅刻してきたのに、恩師に挨拶もせずに、どっかりと席をおろして、いきなり演説を始めたんだ。大きな声で。みんな驚いたよ。遅刻してきたのに、いきなりですからね。ひとしきり自分の話が終わったら、初めて“おっ先生、元気か”なんて片手をあげた。田中角栄みたいなあれだよ。目立たないだけのあの男が、いつの間にかそういう尊大さを身につけていたんだ」

 大蔵商事時代の彼が、水を得た魚のごとく活き活きとし、さらに周囲が驚くほどの尊大さを身につけ始めたのは注目に値する。

 やがて戸田から信頼を得た池田氏は本部の青年部を経て、参謀室長に抜擢されることになる。

 池田氏は後に、大蔵商事時代について、こんな発言を残している。

「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思った。鶴見で、まったく未開の所へ地盤をつくりながら、同時に学会員を起してきた。私は何もないところから闘った。当時は戸田先生が世界一だと云っても通用しない。本当に苦戦の連続であった」

「戸田先生は葉っぱを御札にする。本当にする。そうしなければ広宣流布は出来ない。必ずそうする。広宣流布の為ならば葉っぱを札にしてみせる、と云う戸田先生のきょう信(原文ママ)が今日の学会を築いた。それだけにきびしかった。学会はこの精神を忘れてはならない」(いずれも68年2月10日の『社長会』にて)

 この高利貸し時代は、あらゆる面において、今の池田氏をつくる基となったことは間違いない。

 そして58年4月、肝臓と糖尿が悪化して戸田が鬼籍に入った後、池田氏は権力闘争に勝ち抜き、60年5月、第3代創価学会会長に上り詰めるのである。

 池田氏はよほどこの大蔵商事時代に触れられたくないのか、先の『年譜』でも、

〈50年(22歳) 11月27日 この年の秋より戸田城聖を顧問として営業を開始していた大蔵商事の営業部長となる〉

 と、簡単な記述があるのみだ。

 やはり、「消費者金融の営業部長」の肩書は、「池田博士」にはあってはならないものなのだろう。

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