表彰台で抗議をした二人の黒人選手と傍らに立った白人選手「ピーター・ノーマン」感動の物語 前日に三人の間で交わされた会話とは(小林信也)

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 1968年のメキシコ五輪。陸上男子200メートルの表彰式でその事件は起こった。

 アメリカの国歌が流れ、星条旗が掲揚される中、19秒83の世界新記録で金メダルを獲得したトミー・スミス(米)と銅メダルのジョン・カーロス(米)が黒い手袋をはめてうつむき、スミスは右手、カーロスは左手の拳を高く突き上げた。足元には黒いソックス。それは〈ブラック・パワー・サリュート〉と呼ばれる、黒人差別に対する抗議行動だった。華やかな賞賛に包まれるはずの表彰式が重苦しい空気に沈んだ。テレビでその映像を見た私はまだ小学6年生。彼らがなぜそのような行動を取ったのか、理解できなかった。

 後にわかったことだが、折しもアメリカには公民権運動の嵐が吹き荒れていた。その年の4月4日、先駆的リーダーのひとりで、64年にノーベル平和賞を受賞したマーティン・ルーサー・キング牧師がテネシー州メンフィスで暗殺された。スミスとカーロスは世界中の注目を浴びるオリンピックの表彰式で自分たちの置かれた立場とその改善を訴えたのだ。彼らの政治的行動はすぐ断罪された。IOCとアメリカ五輪委員会は五輪憲章違反を理由にアメリカ・ナショナル・チームから二人を即日除名し、選手村から追放した。

「神を信じるか」

 私は、拳を上げる黒人二人の脇で、所在なげに国旗に目をやる白人銀メダリスト、ピーター・ノーマン(豪)をかわいそうに感じていた。ノーマンにとって栄光の舞台が、黒人選手の心無い行動で台無しになった、巻き添えを食った被害者に見えたからだ。そう感じたのは、日本のメディアが彼の心情まで伝えていなかったからだろう。あるいは、幼かった私が深い情報まで受け取るアンテナを持っていなかったのか。

 ところが、つい最近になって新しい事実を知った。ある夜、ネットで古い出来事を検索するうち、思いがけない逸話に出くわしたのだ。複数のサイトに、あの時の黒人選手二人と白人銀メダリストをめぐる真相が書かれていた。スミスが証言している。

「前日にたまたま三人で話す機会があった。ノーマンに『人権を信じるか』と聞いた。ノーマンが『信じている』と答えたので、『神を信じるか』と尋ねた。『強く信じている』と彼は答えた。それでわれわれは表彰式でするつもりのことをノーマンに話した。と、ノーマンは愛に満ちたまなざしで言った。『僕も君たちと一緒に立つ』。その言葉をわれわれは決して忘れない」

 ノーマンは、二人の胸にあるバッジを指して聞いた。

「君たちが信じていることを僕も信じている。そのバッジ、僕の分もあるかい? それを着けて立てば、僕も人権運動を支持していることが証明できる」

 ノーマンは他の黒人選手からバッジを借り、胸に着けて表彰式に臨んだ。

 オーストラリアにも根深い人種差別があった。当時の豪政府は、そして社会は白人優先主義と白人以外の人種を排斥する思想が主流を占めていた。先住民であるアボリジニへの不当な差別にノーマンは怒りと問題意識を抱いていた。

 ノーマンの行動は日本では大きなニュースにならなかったが、母国では大問題になった。帰国するとすぐノーマンは非難を浴び、社会的な立場を脅かされた。4年後のミュンヘン五輪でも代表になる基準を満たしていたが、選ばれなかった。

 引退を余儀なくされたノーマンのその後の人生は苦難に満ちていた。あの出来事が尾を引いて、ノーマンは白人社会から疎まれる存在となった。懸命に働き、体育教師、精肉店などの仕事で家族を支えた。一方で、アルコール中毒やうつに苦しんだという。ノーマンは2006年10月3日、心臓発作で亡くなった。享年64。訃報を聞いたスミスとカーロスはすぐオーストラリアに飛び、葬儀でノーマンの棺を担いだ。豪政府は死後6年、メキシコ五輪から44年がたった12年10月になってようやくノーマンに正式な謝罪をした。

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