【田宮二郎の生き方】衝撃的な死の直後、妻が公開した日記の中身「本当は素朴なあたたかい生き方もある筈なのに…」

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俳優の他に、もう一人の田宮二郎がいた

 ここで田宮の半生をたどってみよう。

 1935(昭和10)年に生まれ、京都市で育つ。実家は金融業を営んでいた。学習院大学に在学中、スポーツニッポン社主催の「ミスター・ニッポン」に当選し、1956(昭和31)年、大映に入社。その後、勝新太郎(1931~1997)と映画「悪名」で共演。1966(昭和41)年、大映作品「白い巨塔」で冷徹な医師を演じ、多くの映画ファンや評論家をうならせた。

 だが、映画製作をめぐる経営陣との意見相違などを理由に、1968(昭和43)年、今井正監督(1912~1991)の「不信のとき」を最後に、当時の永田雅一社長(1906~1985)に辞表を提出してフリーとなった。

 その後の活躍はご存じの通りだが、1977(昭和52)年、家屋敷を抵当に入れ、2億8000万円を投じて作った映画「イエロー・ドッグ」は不調に終わるなど、賭けにも似た生活に首をひねる関係者も少なくなかったという。

 映画「悪名」で14本もコンビを組んだ勝新太郎が、マスコミからの田宮の訃報を受け、なかなか意味深いことを言っている。

「おそらく俳優田宮のほかに、もう一人の実業家田宮がいて、実業家田宮が負けたのだろう。これからの映画界にとって大きな痛手だと思う」

 フジテレビ系で放送された「白い巨塔」で恋人役を演じた太地喜和子(1943~1992)も、田宮のもう一つの顔を見抜いていた。ある種の覚悟というか、諦めというものを感じたのだという。

 冗談を言うと、一応は乗ってくる。でも、すぐに笑いは消えた。何かと根も葉もない噂が立っては消えていく芸能界。「人から後ろ指はささせない」という気負いが田宮はもともと強かったのだろう。黒い噂が立つこと自体が許せないという潔癖な性格だった。

 華やかなように見えても、芸能界は孤独なのだろうか。

 次回は「ブギの女王」と呼ばれた昭和の大スター・笠置シヅ子(1914~1985)。現在、彼女がモデルになったNHK朝の連続テレビ小説で「ブギウギ」が放送されているが、そのパワフルな歌声は私たちに今も勇気と希望を与えてくれるだろう。享年70。日本人の平均寿命から見ると若すぎる死。何があったのだろうか。

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■相談窓口

・日本いのちの電話連盟
電話 0570・783・556(午前10時~午後10時)
https://www.inochinodenwa.org/

・よりそいホットライン(一般社団法人 社会的包摂サポートセンター)
電話 0120-279-338(24時間対応。岩手県・宮城県・福島県からは末尾が226)
https://www.since2011.net/yorisoi/

・厚生労働省「こころの健康相談統一ダイヤル」やSNS相談
電話0570・064・556(対応時間は自治体により異なる)
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/seikatsuhogo/jisatsu/soudan_info.html

・いのち支える相談窓口一覧(都道府県・政令指定都市別の相談窓口一覧)
https://jscp.or.jp/soudan/index.html

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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