“暴力横綱”と叩かれ廃業した横綱・双羽黒 「このまま時が流れて…」本人が生前に語っていた心境とは

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おかみさんの痛々しい写真まで公開され

 昭和62年12月、相撲界にショッキングな事件が起こった。

 現役の横綱・双羽黒が、所属する立浪部屋の師匠と揉め事を起こし、しかも、その仲介に入ったおかみさんにケガを負わせ、部屋を出て行ったという。

 三角巾で腕を吊ったおかみさんの痛々しい写真まで公開され、「暴力横綱」と叩かれた双羽黒は、現役続行のピンチに立たされた。

 そして、大晦日――。緊急理事会を開いた日本相撲協会は、双羽黒の廃業処分を決める。

「相撲道の違いで、これ以上、師匠(立浪親方)に付いていけません。自分を貫きました」

 記者会見で、こう語った双羽黒。

 まだ、24歳。当時の春日野理事長(元横綱・栃錦)が、立浪部屋の大横綱、双葉山と羽黒山から命名した「双羽黒」という四股名。199センチ、157キロ。類まれな素質の持ち主は、志半ばで相撲界を去ることになった。

小学生の頃から東京の立浪部屋に出入り

 昭和38年、三重県津市に生まれた双羽黒こと北尾光司少年は、幼い頃から他の子どもより、頭1つ分背が高かった。

 光司は小学5年生になると、体を鍛えるために自宅近くの柔道道場に通い始める。おっとりした優しい性格、争いごとは好きなほうではなかったが、体の柔軟性に長けていた光司は、めきめきと柔道の腕を上げていった。

 そんな彼に目を付けたのが、三重県在住の立浪部屋の後援者だった。

「どうだい、北尾君。今度、東京に行ってみないか?」

 こうして、光司は小学生の頃から、東京の立浪部屋に出入りするようになる。将来の「金の卵」である。力士に混ざって稽古をすることはほぼなかったものの、中学生になると、「将来は力士になろうかな?」と自然に考えるようになっていた。

 そんな光司を、不安な気持ちで見守っていたのは、両親だ。相撲部屋の厳しい稽古と団体生活に、はたしてあの子は馴染めるのだろうか……。

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