現世の寿命以上に死んだ後は長い? 横尾忠則が思い描く「死後の世界」

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 ここ1、2年の間に新聞のお悔やみ欄に記された友人、知人の数は驚くほど多く、ちょっと愕然としています。まあ自分自身が多くの死者を見送る老齢になった証拠かも知れません。それにしても死者は一体どこへ行ってしまったのだろう、このことは誰もが考えます。

 でも大抵の人は、死と同時に肉体が消滅してしまうので、肉体の一部である脳もその機能が停止し、死んだら無になると考えるのではないでしょうか。一理あるとは思いますが、僕はちょっと違う意見です。人間は肉体的存在であると同時に魂的(霊的)存在であると考えています。死と同時に魂は肉体から離脱します。魂には生前の経験も思想も知識も記憶も意識も全て宿っていて、向こうでは肉体に変って霊体が、その役割りを果たすと僕は考えます。

 だから死を自覚したにもかかわらず、「生きている」感覚があります。生前と同様、五感も機能しています。五感は肉体器官だけれど生前の五感に対する記憶は変らない習慣として感じるのではないかと思うのです。それと、意識が物凄くクリアーになります。生前は肉体の制約を受けていたために、意識はどんよりとしていたはずです。それが自分でも見違えるほど意識が鮮明になり、五感の働きも驚くほどクリアーになります。物事への見識がまるで悟ったかのように明晰になり、心身が軽ろやかに感じ、言葉は音声ではなく、波動によって伝達します。多分死んだ当座はこのような状態ではないかと思います。

 ここはまだ死の序の口で、スウェーデンボルグやルドルフ・シュタイナー、ダンテらは、この状態を精霊界、中庸界、煉獄界とそれぞれの呼び方をしていますが、ここは一種の魂の休憩所みたいなところで、やがて、それぞれの魂のレベルに従って行き先きが決められます。それを決定するのは、仏教説話によればエンマ大王であると、僕達は子供の頃、お寺のお坊さんや、地獄絵図から学んできましたが、実際にエンマ大王がいるのではなく、エンマ大王はそれぞれの人の中に存在している理念だと思うのです。本来の自己を最もよく知っているのは、魂ですから、自らを裁くのは内なるエンマ大王だと思っていいのではないでしょうか。

 死後の世界はせいぜい百年前後の現世の寿命以上に、うんと長いはずです。ある意味、時間があるようでない世界ですから、死んでハイ終りではなく、いよいよここから本格的な異次元の生存世界が始まると言ってもよいでしょう。そのように考えてみては如何でしょうか。初めて経験する未知の領域へ参入してきたと思いましょうよ。

 死後の世界があるかないかは死んだことがないからわからないと答えるのが正解のように思われますが、本当は誰もが死の世界を経験しているのです。われわれが生まれる以前、実は死の世界にいたのです。ただ記憶を消されているだけです。この世に生まれる以前は全ての人が死の世界にいて、そこから、この現世へ輪廻転生して生を授けられてきたのです。

 その後肉体的生の寿命を終えて、再び死後の世界へ帰っていくのです。そしてわれわれは遅いか早いかは人それぞれですが、その死後の世界に、死ぬのではなく誕生するのです。つまり魂的存在である自分は気が遠くなるほどの長い旅路を延々と生きてきているのです。それが輪廻転生です。生まれ変り、死に変って、遥か遠い過去からやってきて、今われわれはこの現在にいるのです。

 ではいつまで、この生死のサイクルを生き続けなければならないのか、ということになりますね。永遠に輪廻転生を繰り返すのか、という疑問にぶち当りますが、輪廻転生は必ずしも永遠に繰り返すわけではありません。ある時、それは終ります。今世でやるべきことを全部終えて、全ての欲望と執着という煩悩から解脱して不退転者になった時、その人はもう二度とこの世に生まれ変るということがなくなります。目出たし、目出たしで、いわゆる仏教でいう涅槃(ねはん)の境地に入るのです。

 人は不退転者になって涅槃に入るために生まれてきたというわけです。そのために一回や二回の生じゃ追っつかないのです。何百回も輪廻転生を繰り返し、何千年、何万年もかけて、やっとこさで人間を卒業するらしいのです。だからわれわれ人類の全てはそのオデッセイの旅の途上にいるといっていいんじゃないでしょうか。

 人間に与えられた全ての苦楽を全うする、そのための時間が、気が遠くなるほどわれわれには与えられているのです。そう簡単に目的が達成できるようにはなっていない気がします。それが宇宙の法則かも知れませんね。だったらこの気の遠くなる時間をうんと楽しく遊んで過ごすことで、気がついたら輪廻のサイクルから離脱してしまっていたということもあり得るのではないでしょうか。

 さて自分は今、果たしてどの辺りにいるのか、検討してみたらどうでしょうか。今回の人生で卒業するかな? それとも、もう一回、来世に生まれ変って、そこで打ち止めかな、いやいや、あと何回も転生させられるかも知れない──と自分の魂の運命をあれこれ想像するのも愉しいんじゃないでしょうか。

 以上は僕の死後に対する妄想でありました。

横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2015年第27回高松宮殿下記念世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。22年度日本芸術院会員。

週刊新潮 2023年10月26日号掲載

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