テレビ局は政略結婚も画策…全てを知る、絶対的存在「藤島ジュリー氏」に問われる説明責任

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大学卒業後はフジテレビの秘書室に配属

 ジュリー氏が生まれたのは1966年。父親は元東京新聞記者で保守派の作家・藤島泰輔氏(1997年に64歳で死去)である。メリー氏は当時、東京・四谷でマスコミ人が来るバーを営んでおり、そこで客の1人だった藤島氏と知り合った。ただし、ジュリー氏が生まれた時の藤島氏には妻がいた。前妻との離婚が成立したのはジュリー氏が5歳の時だった。

 藤島氏は学習院初等科から同大学まで上皇さまのご学友で、上皇さまとご学友たちを題材にした『孤獨の人』(1956年)で小説家デビューした。一方で文藝春秋社が発行していた右派オピニオン月刊誌『諸君!』などに評論を寄稿した。

 また1977年の参議院議選挙に自民党公認で全国区から立候補したが、落選。メリー氏は気位の高さをよく指摘され、一方で保守人脈を持っていたが、これには藤島氏の影響がある。

 一方、ジュリー氏は、中学時代にアメリカンスクールで学んだ。その間、TBS「3年B組金八先生」に生徒役で出演。子供のころから芸能界に関心があった。高校は米国に留学。渡米には藤島氏が同行した。1人娘を溺愛していたようだ。

 帰国後のジュリー氏は上智大外国語学部比較文化学科(現・国際教養学部)に進学。卒業後はフジテレビに入社したものの、嘱託だった。あらかじめジャニーズ事務所の後継者になることが決まっていたからだ。配属先は秘書室。当時のフジテレビ社長は現相談役の日枝久氏(85)だった。

興味のない話には全く関心を示さない

 フジテレビを退社したジュリー氏は1993年、ジャニーズ事務所へ入社。1997年には同事務所系のレコードレーベル「ジャニーズ・エンタテイメント」の初代社長に就任する。翌1998年には同事務所本体の取締役にも就いた。30代前半にして同事務所の実質的なナンバー3になった。

 このころのジュリー氏は各局の幹部クラスとよく食事をしたものの、その場で仕事の話は一切なし。

「メリー氏は美食家でしたが、ジュリー氏もグルメの話が好きだった」(元民放幹部)

 興味のない話には全く関心を示さないのも特徴だった。

「無関心な話には反応しない。はっきりしていた」(元民放社員)

 元King & Princeの平野紫耀(26)、岸優太(28)、神宮寺勇太(25)が退所前、ジュリー氏に何度も面談を申し込むが、会うことを渋られたという。ひょっとしたら、興味がないタレントにはそうなのか。

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