「自分たちは英雄ではなく被害者だ」 岸田首相襲撃事件で“活躍”した漁師が危機管理の専門家に訴えた意外な本音
テロリストはメディアを利用して宣伝活動を繰り広げる。メディアは数字が稼げる「コンテンツ」としてテロ事件を活用する。これは「共生」あるいは「共犯」関係ではないか――そう指摘するのは、福田充・日本大学危機管理学部教授である。
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前編では、安倍元首相銃撃事件で被告のプロパガンダ機関と化した日本のメディアの実態、対照的に報道ガイドラインを持つイギリスのケースについて見た。
テロなどの報道においては、政府とメディアの間で事前の取り決めなどがあってしかるべきだが、日本の場合、そうしたことを進める動きは鈍い。その背景には、左翼的な言論人が幅を利かせている日本ならではの特殊事情もあるようだ。以下、福田氏の新著『新版 メディアとテロリズム』をもとに見ていこう。(引用はすべて同書より)(前後編の後編)
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「危機管理」「有事」の議論を嫌った左翼勢力
現代の日本人にとって、もっとも身近に感じられたテロ事件はオウム真理教事件だろう。1990年代中盤以降には、これ以外にも阪神淡路大震災、北朝鮮不審船事件、拉致問題等々によって、平和ボケと揶揄された日本人の危機意識も一挙に高まっていく。
それによって「危機管理」「有事」「テロ対策」といったキーワードも頻繁に用いられるようになった。
実はそのこと自体、日本においては画期的な出来事だったようだ。というのも、こうしたテーマについて議論すること自体、白い目で見られるような風潮があったからだ。福田氏は次のように述べている。
「(1990年代後半以降)、それまで、研究者が大学では決して口にすることさえできなかった『危機管理』、『有事』、『テロ対策』という言葉は日本においてはじめて研究対象として解禁された。
一般社会においても日本国憲法と戦後民主主義の名のもとに、『有事』という概念は戦争の準備を意味し、アジア近隣諸国を刺激するものとして、左翼勢力やメディアによってタブーとされ、『危機』や『テロリズム』を想定して対策すること自体が国家の統制を強化する危険思想と認識される時代が戦後長く続いた。
これに漏れず、東京大学をはじめとする日本のほとんどの大学でも、20世紀中は『危機管理』や『テロ対策』は危険思想として禁忌されるべきタブーだったのである。警察政策学会とその一部会である『テロ対策研究部会』が発足したのは1998年のことであり、慶應義塾大学にグローバルセキュリティ研究所ができたのも2004年のことである」
台湾有事といった言葉がテレビの情報番組でも用いられる現在しか知らない人には信じられないだろうが、当時はそのようなことを想定するだけで「右翼」などと言われかねなかった。小泉純一郎氏が訪朝するまでは、拉致問題を取り上げることを批判する勢力も存在していた。
「危機」について想定し、準備することそのものを忌避する空気があったのだ。ところがオウム真理教その他の影響で、テロ対策は他人事ではない、という認識が強まってくると、急にメディアの論調に変化が生まれた。
「それまで危機管理の言説を封じてきたいくつかの新聞やテレビなどのメディアが『なぜ日本は危機管理が遅れているのか』と政府や研究機関を批判したことは滑稽な現象であった。それを自覚できないようでは、日本のメディアはもう終わりである」
日本の危機管理が遅れている理由の一つは言うまでもなく、メディアそのものにあったのである。
安倍元首相銃撃事件報道の反省は
当時と比べてメディアのテロ報道の姿勢に変化は訪れたのだろうか。前編で見たように、安倍元首相銃撃事件での過剰に被告に寄り添った報道を見て、「反省なし」と思う方も多いことだろう。
安倍元首相銃撃事件から1年もたたないうちに模倣犯が登場したことに、その影響を見ないわけにもいくまい。
「木村容疑者がなぜ岸田首相を狙ったのか。自宅に引きこもりがちであった容疑者が、政治を志すようになり、政治家になるために選挙に立候補したいと、ある議員に相談したが果たせず、恨みを持ったという取材や一部の供述も報道された。この岸田首相襲撃事件の当日から、またメディアスクラムは発生した。連日、テレビや新聞はこの事件を報道し、社会は過熱した。その報道のパターンは、やはり1年前の安倍元首相銃撃事件と同様であった。
メディアが報道したのはやはり、木村容疑者が作った手製爆弾について、そしてその材料の購入の規制について、選挙期間中の要人警護、警備体制の問題についてであった。要人暗殺テロが発生したときの、メディア報道はすでにパターン化しつつある。要人暗殺テロの本質、根源的な問題に迫るものでは決してなかった」
英雄ではなくて被害者だ
福田氏は岸田首相襲撃事件の現場を訪れ、漁協関係者や事件当日現場にいた漁師の皆さんにインタビュー、ヒアリング調査を実施した。
英雄のように取り上げられた彼らの口から出たのもまたメディアへの違和感であった。
「この事件が首相を狙ったテロかどうかなんて自分たちにはどうでもいい。自分は目の前で起きたことに咄嗟(とっさ)に反応しただけだ。(略)
テレビカメラに追い回されて、いろんなところから野次馬や見物客がやってきて。事件の捜査のために漁港は一時閉鎖されて、何日も、自分たちは漁に出られなくなった。漁に出られなかったら自分たちはおまんまの食い上げだ。
その間の生活の保障は誰がしてくれるのか。
自分たちは注目されて英雄扱いされているように思われているかもしれないが、自分たちこそ事件の被害者だ。そのことをテレビも新聞も誰も報道してくれない。記者さんが聞きたいことだけ聞いてきて、マスコミにとって都合のいいことばかり切り取って報道する」
漁師は、福田氏が記者ではないと聞いたので話をした、自分たちの本音を社会に伝えてほしい、と言い添えている。
この言葉は、テロ事件ですら数字を稼ぐ「コンテンツ」として消費してしまうメディアに向けられた本質的な批判と受け止めるべきではないだろうか。