高2で欽ちゃんと同居、イモ欽を経て俳優、結局「お前、3億円損したよ」と言われ…ワルオ「西山浩司」が語った芸能生活50年

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

Advertisement

前編【西山浩司が語る「イモ欽トリオ」秘話 ハイスクールララバイは160万枚売れたのに音楽賞はゼロ、紅白にも出なかった理由】からのつづき

 イモ欽トリオのワルオことタレントの西山浩司(62)は、今年で芸能生活50周年を迎えた。萩本欽一(82)との出会いに始まり、役者への転向、そして現在を語ってもらった。

 ***

――萩本との出会いの場所は、香川県高松市だった。

西山:萩本さんの「スター誕生!」(日本テレビ)の公開収録が、僕の地元の高松にやって来たんです。僕は当時、中学1年の12歳、学校を抜け出して見に行きました。「スタ誕」には歌手を目指す人たちが歌って審査する間に「欽ちゃんと遊ぼう」というコーナーがあって、そこに飛び入り参加したんですよ。

――山口百恵(64)の歌を独自の振り付けで歌ったという。

西山:それがウケちゃって、帰りにはスタッフから自宅の電話番号まで聞かれたんです。なんでも萩本さんが「あいつ、(東京に)呼べないか」と言っていたそうです。でもね、僕はまだ中学生ですから。

――だが、萩本は諦めなかった。

西山:正月に放送される「スタ誕」の特番なら冬休みだから東京に来られるでしょうと呼んでもらい、愛媛県松山市の公開収録にも出させてもらいました。2年後、中3の時に、父がたまたま東京に転勤になったんです。僕も一緒に上京すると、「後楽園ホールだから毎週来て」と言われまして。

――西山はいきなり「スタ誕」のレギュラーに。

欽ちゃんと同居

西山:父親の東京勤務は2年と決まっていました。父が高松に帰って、東京で高校生になった僕は、駒込の伯父さんの家に厄介になることにしました。そして高校2年から「よい子悪い子普通の子」の前番組「欽ちゃんのドンとやってみよう!」(フジ)のレギュラーになりました。内山田洋とクール・ファイブの前川清さん(75)や、朴訥な東北弁の気仙沼ちゃん(68)が人気者になり、僕も一緒にコントをやっていました。そんな時、萩本さんが「お前、今どこにいるの?」と聞かれたので、「伯父さんの家」と答えると、「それなら俺のとこに来い」と言うんです。

――萩本宅に住み込むことを決めたという。

西山:萩本さんは家族とは別に、世田谷で暮らしていました。僕が通っていたのは都立練馬高校ですから、そこからだと電車通学で1時間くらいかかってしまう。すると萩本さんは「お前の学校の近いところに家買ったから」と、30分で通える大塚に一軒家を買ってしまったんです。

――売れっ子だからお金はあるとはいえ、ずいぶん太っ腹だ。

西山:その家で暮らしていたのは萩本さんと、萩本さんが抱える構成作家集団のパジャマ党とサラダ党のスタッフ、そして僕の男6人。食事は事務所の女性スタッフが毎日来て作ってくれました。皆さん昼は仕事で出かけているけど、僕は高校生でしょ。学校から帰ってくると、ステレオでガンガン音楽をかけていた。すると裏のアパートの住人から苦情が来るようになったんです。

――萩本はどう対処したのだろう。

次ページ:欽ちゃんにはなれない

前へ 1 2 3 次へ

[1/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。