「家事は全部妻まかせ」が招く認知症? 父の介護で気づいた「男を無力にする真の原因」

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 本日は「敬老の日」。そして3日後の9月21日は、「世界アルツハイマーデー」とされています。

 アルツハイマー型認知症とは、加齢などの要因のため脳の一部が縮んでいくことにより、もの忘れなどが生じる病気だと考えられています。しかし、ノンフィクション作家の高橋秀実さんは、認知症と診断された実父の食事介助をしているうちに、「ここまで手取り足取りサポートしないと食事ができないというのは、脳の問題だけでは説明がつかないのではないか」と考え、近著の中で「家父長制型認知症」という概念を提唱するに至ります。

 以下、高橋さんの著書『おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした436日』の中から、「家父長制型認知症」に関する記述を再編集してお届けします。

何もできない父

 認知症の食事介助は、ここまでサポートしなければならないのだろうか。

 これは認知症というより長年の習慣だろう。母は毎日欠かさず三食を用意し、父に給仕していた。かれこれ60年にわたって続けてきた習慣で、父にとって食事とは「食べる」というより母の給仕を受けること。母の前に「座る」ことなのだ。

 この習慣こそ認知症の原因ではないだろうか。家事を一切せず、外でお金を稼ぐだけで、あとはすべて母任せ。いわゆる家父長制が認知症を招いている。父はアルツハイマー型というより家父長制型認知症といえるのではないだろうか。

 認知症の診断基準のひとつであるDSM-5によれば、認知症とは「認知機能の低下」「認知行為の障害」(『認知症疾患診療ガイドライン 2017』日本神経学会監修 医学書院 2017年 以下同)であり、具体的には「毎日の活動において、認知欠損が自立を阻害する」こと。つまり認知欠損によって自立した生活が営めないということである。

 その認知欠損とは「せん妄の状況でのみ起こるものではない」「他の精神疾患によってうまく説明されない」とのこと。せん妄やうつ病、統合失調症などの精神疾患では説明できない認知欠損ということなのだが、家父長制なら説明がつくのではないだろうか。

 日本の診断基準でも認知症の本質とは、「いままでの暮らしができなくなること」(長谷川和夫、猪熊律子著『ボクはやっと認知症のことがわかった』KADOKAWA 2019年 以下同)とされている。「それまで当たり前にできていたことがうまく行なえなくなる」という「暮らしの障害」「生活障害」を認知症と呼ぶそうで、そのまま当てはめると父の認知症は母の死によって発症した。家事を一切してこなかったからこのような事態を招いたわけで、その根本原因は明らかに家父長制なのである。

「家父長制」の罠

 あらためて調べてみると「家父長制」とは社会学の言葉で、こう定義されていた。

「家長である男子が家父長権によって家族員を支配・統率する家族形態。」(『社会学辞典』有斐閣 昭和33年 以下同)

 この「家父長権」とは「家父長制家族において家長が家族員に対して有する支配的権利」とのこと。家父長権に基づく家父長制という同語反復の定義であり、要するに男子が支配・統率する家族のことである。『近代家族の成立と終焉 新版』(上野千鶴子著 岩波現代文庫 2020年)によると、明治20年代に「主人」と「主婦」という対語が登場したという。これが父たちの世代にも通じる家父長制であり、男子は「主人」として、女子は「主婦」として生きるようになったらしい。確かに「主人」というからには支配する立場のようだが、実際に何をするのかというと――、

「主人は家の棟(むなぎ)ともなるべきものなれば、極めて志を大になし、家の細事(こまかしきこと)には餘(あま)り氣を止めざるを宜(よし)とす」(『現代青年少年百科辞典』青少年教育會編 日本博文舘 大正14年 以下同)

 主人の主人たるゆえんは、家の細かな事を気にとめないこと。まるで認知症に向けたトレーニングなのである。なんでも「家の細小なる事業を掌(つかさ)どる」のは主婦の役割であり、主人は「大粗(おほまか)」でなければならない。家の者に対しても「細かなる過失(あやまち)を餘(あま)り甚だしく責めざる」、つまり細々と責めたりしてはいけない。そして「一家のものを好く愛して嬉しく暮し」、さらには「萬事(ばんじ)喜びを以て用事を爲(な)さしむる方要用(えゝよう)なりとす」とのこと。つまり主人はいつもハッピーで能天気でなければいけない。能天気ゆえに「自分の思ふ通りに行はんとするときは、反(かへつ)て家の不祥(不祥事のこと)を來す事あれば、能(よ)く夫婦親子相談を遂げてなすべし」と戒めている。下手に自分の思い通りにしようとすると失敗すると警告までしているのだ。

 つまり「主人」とは実質はぼんくら、あるいは阿呆。まさに父のようなのである。父がよく口にする「なんにもしてない」というフレーズも実はその伝統に則っていたのだ。

支配の反転

 一方、「主婦」の役割は国が定めていた。女子は「夫を主人と思ひ、敬ひ愼て事(つかふ)べし」(「女大學」/『日本教育文庫 教科書篇』同文館 明治44年)という教えを受け継ぎ、女子師範学校の家事教科書などには「主婦の心得」として次のように記されている。

「主婦は夫を助け、舅姑に事へ、子女を教養するの任あるのみならず、外は親戚・朋友と交りて其の親睦を保ち、内は婢僕を管理して各々其の職務を盡さしめ、衣食住の事を掌りて一家の經濟を整へ、家人の健康を進め、家道をして隆盛ならしめんことを期せざるべからず。」(佐方志津、後閑菊野著『女子師範學校 家事教科書 下卷』目黒書店、成美堂 大正6年)

 両親の介護から子育て、親戚や友人との付き合い、衣食住すべてを管理し、家計や皆の健康まで責任を負う。さらには「婢僕(使用人)」も仕切るので、「統帥心理」(豐岡茂夫著『女氣質と修養』博文館 明治43年)も必要とされていた。

「主婦」というのは、その名のごとく家の「主」だったのである。すべてを支配しているのは実は主婦のほうで、主婦がいなくなれば主人が生活できなくなるのは必然であり、やはり認知症は制度的に生み出された症状なのだ。

 かつてトルストイも小説『クロイツェル・ソナタ』の中で結婚生活のことを「男に対する恐ろしい支配」(トルストイ著『クロイツェル・ソナタ 悪魔』原卓也訳 新潮文庫 平成17年改版 以下同)だと指摘していた。

 制度的には男性が女性を支配しているように見えるが、冷静に考えてみれば世の経済は女性仕様に形成されており、女性たちは「まるで女王のように、人類の九十パーセントを、隷属と重労働の中にとりこにしている」とのこと。男性と同等の権利を奪われてきたがゆえに、女性たちは「われわれの性欲に働きかけ、われわれを網の中に捕えることによって、復讐する」らしい。男性たちは捕えられたまま馴化(じゅんか)され、網がなくては生きていけなくなるわけで、そうなると認知症も復讐の一形態なのだろうか。

――でも、あれだよね、母はもう死んだわけだから、復讐って言ってもね。

 私がつぶやくと、妻が切り返した。

「復讐は続いていくのよ」

――え?

「私がお母さんの代わりに復讐するの。お母さんから受け継いでいるから」

 妻はニヤリと微笑んだ。思いもよらぬ復讐宣告に私はたじろいだ。

 介護は愛であり、それゆえ残忍な復讐でもある。ニーチェも「復讐と恋愛においては、女は男よりも野蛮である」(『善悪の彼岸』木場深定訳 岩波文庫 1970年)と警告していた。

 やばいぜ、おやじ。

※高橋秀実『おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした436日』(新潮社)より一部を再編集。

(※引用文献の一部は適宜、新字体に修正しました。)

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高橋秀実(たかはしひでみね)
1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。他の著書に『TOKYO外国人裁判』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『男は邪魔!』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『パワースポットはここですね』『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』『悩む人 人生相談のフィロソフィー』『道徳教室 いい人じゃなきゃダメですか』など。

デイリー新潮編集部

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