1985年「阪神優勝」の“陰の功労者”川藤幸三、二度の引退勧告を退けた波乱万丈の野球人生

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「代打の切り札」

 スタープレーヤーとして常に脚光を浴びながら華々しく活躍する選手がいる一方で、戦力外通告を受けたにもかかわらず、年俸大幅ダウンを受け入れて現役を続行。代打の切り札やベンチの盛り上げ役としてチームになくてはならない存在になり、プロ18年目にして初優勝の美酒を味わった男がいる。阪神ひと筋に19年間プレーし、“浪花の春団治”の異名をとった川藤幸三である。【久保田龍雄/ライター】

 1967年にドラフト9位で指名され、内野手として阪神に入団した川藤は、俊足と強肩を売りに、69年に1イニング3盗塁を含む30盗塁でウエスタン盗塁王、外野手転向後の74年には1軍で106試合に出場するなど、レギュラー獲りも目前だった。

 だが、翌75年に両足のアキレス腱を痛めてからは、自慢の足を生かせなくなり、出場機会が激減。一転野球人生の岐路に立たされた川藤は、生き残りをかけて、足に負担のかからない代打のひと振り稼業に活路を求めた。

 それまでめぼしい実績のなかった打撃は、初めは首脳陣に評価されなかったが、78年9月5日の巨人戦で新浦寿夫から初の代打サヨナラ安打を記録したことがきっかけで認められ、同年から81年まで4年連続3割以上をマークするなど、代打の切り札として活躍した。

「わしはまだまだやりますよ」

 しかし、82年以降は1軍での出番も徐々に減り、出場34試合、打率.241、1本塁打、5打点に終わった83年オフに戦力外通告を受けてしまう。

 球団は2軍コーチのポストを用意したが、川藤は「わしはまだまだやりますよ。次の道行けと言われても、わしの気がすまん。どないな条件でも受けましょう」とペナルティを承知のうえで、あくまで現役続行にこだわった。

 この結果、年俸は1200万円から野球協約の上限25パーセントを大きく超える600万円に半減、1年間2軍でプレーすることになっても文句は言わない、ベテラン扱いはしないなどの条件で残留が決まった。この破天荒な生き方が、上方落語界のスーパースターだった初代・桂春団治を彷彿とさせたことから、“浪花の春団治”の異名も生まれた。

 翌84年、開幕を1軍で迎えた川藤は、4月10日の大洋戦でシーズン初安打を記録したが、その後は8打席連続無安打と結果を出せず、登録抹消の危機を迎える。もし2軍に落ちれば、再び1軍に戻れないままシーズン終了→現役引退となる可能性が強かった。

 そんな窮地に追い込まれていたとき、夫人が「いいから見てみなさい」と映画「ロッキー」のビデオを手渡した。

 無名の三流ボクサー、ロッキー・バルボアが思いがけず舞い込んだ世界チャンピオンとの一戦に見事勝利し、栄冠を手にする姿に共感を覚えた川藤は「欲をかいたらあかん。ひと振りに命賭けたらええのや」(自著「ワシは火の玉タイガースの春団治 阪神好きやねん」 角川書店)と迷いを断ち切った。

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