日本潜伏テロリストが「W杯」を狙っていた 「VIVANT」で注目の警視庁公安部外事三課が増強された件とは

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 一般人や旅行者を装って潜伏し、「Xデー」のために虎視眈々と機会を狙うテロリスト。それを阻止すべく捜査を続ける警視庁公安部の捜査員たち――人気ドラマ「VIVANT」さながらの公安vs.国際テロリストの暗闘は前編でご紹介した。そこでの主人公、警視庁公安部外事三課が強化されるにあたっては、一人の大物テロリストの存在があった(大島真生『公安は誰をマークしているか』をもとに再構成しました)。
(前後編の後編)

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フランス人テロリスト

 70人規模で発足した外事三課の人員を、一気に3桁へ引き上げる契機をつくった人物がいる。フランス国籍のリオネル・デュモン――アルカーイダ系のテロ組織「ルーベ団」幹部である。

 このデュモンが日本に9か月間以上に渡って潜伏していたことが2004年5月に発覚した。周囲には寡黙で仕事熱心に映っていたフランス人が、実は「アルマンド」や「サミール」などの偽名を使い分ける凶悪な国際テロリストだったのである。

 デュモンは1999年5月、旧東欧のボスニア・ヘルツェゴビナ最大の都市サラエボの刑務所から脱走し、2003年12月にドイツ・ミュンヘンで逮捕されるまで、4年余りも不気味な沈黙を続けていた。

 当初判明したデュモンの約300日間に及ぶ国内潜伏の足取りは、こうだ。最初の入国が確認されたのは2002年7月17日、シンガポールから偽造旅券で成田空港に到着した。

 その後、3か月間の短期滞在ビザが切れる直前の10月5日、マレーシア・クアラルンプールに向けて出国。さらに同月中にクアラルンプールから再来日すると、約2か月後の同年12月、ドイツ・フランクフルトに出国している。

テロリストは自由に日本に出入りしていた

 2003年3月には3度目の来日を果たしたが、同年5月28日には、再びクアラルンプールに向かった。そして同年7月から約2か月間、日本に滞在し、同年9月にクアラルンプールへ出国。その後、ドイツに渡っている。いずれも、短期滞在ビザの期限内に出国していた。

 国内潜伏中は、新潟市内のマンションで生活しながら、新潟東港近くの中古車販売業者に出入りし、海外に輸出する中古車を運ぶ仕事をしていた。一時は群馬県高崎市にも居住。中古車販売に関連して、長野県や埼玉県にも足を運んでいたほか、群馬県伊勢崎市内のイスラム系寺院(モスク)にも顔を出していたことが確認されている。

 もちろん、これらは彼がミュンヘンで逮捕された後に判明した事実であり、日本滞在中は、公安警察はまったく把握できていない。

脱獄して世界へ

 デュモンはフランス北部ルーベで9人兄弟の末っ子として生まれた。一家はカトリック信徒だった。1993年に徴兵され、ソマリアで人道支援活動に従事した。その体験をきっかけに、不幸な人々を助ける必要を説くようになり、地元のモスクにも通い始めてイスラム教へと改宗したのだった。

 1994年には内戦下のボスニア・ヘルツェゴビナで武装闘争に加わり、翌年、ボスニアで知り合ったフランス人の仲間と「ルーベ団」を結成したのである。

 現金輸送車などの襲撃を繰り返し、市民らを死傷させた。1996年にはフランスのリヨン・サミット前の雇用関係閣僚会議に合わせて爆弾テロ未遂事件を起こし、その後、再びボスニアに潜入し、1997年3月に警察官を殺害した容疑で逮捕され、懲役20年の判決を受けていた。しかし、2年後には脱獄に成功し、世界を股にかけて活動をしていたことになる。

狙われたサッカーW杯

 脱獄後はリヨン・サミット前の爆弾テロ未遂容疑で国際手配され、日本に潜伏していたほか、国際手配容疑でミュンヘンで逮捕されてフランスに移送される直前には、アルカーイダが関与したモロッコ最大の都市カサブランカで起きた爆弾テロ(2003年5月)の犯行グループ関係者をかくまっていたとされる。本格的なテロリストの国内潜伏判明に、日本の公安警察は国際テロ対策の人員増を迫られ、唯一の専門部隊である外事三課が一気に増員されたのである。

 自分たちのまったく知らぬところで大物テロリストが国内を自由に闊歩していたことに驚かされた外事三課を中核とする公安警察だったが、実は彼らは、デュモンにはもう一度驚かされることとなる。

 伏線となるのが、アルカーイダ幹部のハリド・シェイク・モハメド(KSM)に関する米国からの情報だった。KSMは、米国当局の尋問に「サッカーワールドカップを狙って日本でテロを計画していた」と供述したというのだ。

 サッカーのFIFAワールドカップ(W杯)日韓大会は2002年5月31日から6月30日までの日程で行われた。だがKSMは「日本にはイスラム教徒が少なく、支援体制(インフラ)の構築が困難だったため断念した」と説明したというのだ。日本国内のイスラム教徒は当時約21万人とされており、米国内のイスラム教徒数約600万人と比べても極めて少なかった事実とも符合する。

日本も同時多発テロの標的だった

 そもそも米同時テロの際もKSMやビンラディンは日本を標的の一つに考えていたことが、やはりKSMの供述で分かっている。供述によれば、アルカーイダは1996年の段階で、ミサイルの代わりに航空機を使用する対米テロを既に考案。1999年には計画を具体化させ、航空機10機を乗っ取り米国内の10施設を同時に襲う案を練っていたという。

 同年、ビンラディンはKSMに自爆テロ要員として4人のテロリスト予備軍を斡旋し、テロの訓練が開始される。だが計画は次第に肥大化し、新たにアジア地区の空港を発つ航空機でも同時にテロを行うことを計画したのである。

 それは、アジア上空で米国資本などの航空機を爆発させることを第1案とし、代替案として日本、シンガポール、韓国のいずれかにある米国施設に航空機で突っ込むというテロ計画だった。

 だが2000年の段階でビンラディンが時差を理由に「米国とアジアで同時に行うのは難しすぎる」としてアジア計画を断念し、改めて米国内の攻撃だけに絞った経緯があるのだ。

 外事三課によるデュモンの脱獄中の足取りを追うその後の捜査で、デュモンが脱獄した1999年の当初から、既にタイ・バンコクや韓国・ソウルを経て日本への出入国を繰り返していたことが新たに明らかになった。

 このため外事三課はデュモンの入国には、日本でのテロを前提にした「明確な意図があったのでは」との強い疑念を抱き、再び驚愕したのである。

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 幸いにしてデュモンらのテロは日本では実現しなかった。しかし、今なお別組織のテロリストが日本に潜伏していない保証はどこにもないのである。

『公安は誰をマークしているか』(新潮新書)より一部を再編集。

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