「日本刀を振り回す」「バイクで隣人宅にジャンプイン」 ロック・スターたちのアルコール奇行伝説

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 日本は違法薬物には厳しいのに、飲酒には寛容だというのはよく指摘されるところである。実際、大麻その他で逮捕されれば、たとえミュージシャンであっても活動自粛は当たり前、時には永久追放なんてこともあるのに、酒のうえでの過ちは比較的大目に見てもらえる。

 ただ、酒もまた依存症の域に達すれば十分に危険な存在なのは言うまでもない。欧米のロック・スターたちの規格外のエピソードを集めた1冊『不道徳ロック講座』には、彼らが嵌(はま)ってしまった「アルコールの罠」についての章が設けられている。本人たちの回想を読み解くとよくわかるのは、「アルコール依存症仲間の輪」のようなものが存在していたということだ。

 エリック・クラプトンはじめ、スターたちはどのように酒に溺れていったのか。どのように身を滅ぼし、どのように生き残ったのか。

 同書をもとに見てみよう(以下、『不道徳ロック講座』をもとに再構成しました。出典は記事の最後にあります)

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アル中のクラプトン

 エリック・クラプトンは10代のころ、女性の気を引く一番いい方法は泥酔することだと思い込んでいたという。

「それが自分をもっと魅力的にしてくれるか、男っぽく見せてくれるかのように思っていたんだ」(※1)

 彼は10代のころから、勇気が必要な局面にはアルコールの力を借りていた。それだけに酒にまつわる失敗は多い。

 フェスティバルに出かけた夜は、会場近くの森で泥酔し、朝起きると金もなく、服は自分の吐瀉物で汚れ、失禁までしていた。なかなかきつい体験でクラプトンは相応に傷ついているが、どういうわけかもう一度同じ体験をしたくなるとも語っている。こういう強烈な刺激を求める感覚は彼特有かもしれない。

 クラプトンは一時期、ひどい薬物中毒だったが、周囲の助けもあり、1973年以降、ヘロインをやらなくなっていった。しかし、その分アルコール量は増えてしまった。

 1974年にはザ・フーのピート・タウンゼンドの誘いで映画『トミー』に出演した。

 この撮影現場で、親しくなってはいけないミュージシャンと仲よくなってしまう。ザ・フーのドラマー、キース・ムーンだ。キースはロック界で最高のドラマーの一人だが、最悪のアルコール依存症の一人でもある。

「私はずっとキース・ムーンと飲んだくれていたが、それは超現実的な体験だった。完全に出来上がっている彼を見ていると、自分には何の問題もないような気にさせられた。彼に比べれば、自分は小物だと思った」(※1)

飲み過ぎで演奏不能に

 この年、クラプトンはマイアミで、名盤『461オーシャン・ブールヴァード』をレコーディングし、アルバムのツアーに出る。そこに、この時期はまだジョージ・ハリスンの籍に入っていたパティ・ボイドも合流した。そして6年越しの想いが成就したわけだが、彼女も大酒飲み。二人で酒浸りになった。クラプトンの近くには常に大酒飲みがいるから、いつまでも飲み続けてしまう。

『461オーシャン・ブールヴァード』とそのツアーで大金を稼いだ後、クラプトンは税金対策でカリブ海のビーチリゾート、バハマのパラダイス島で暮らす。

 この島は酒がとんでもなく安かったこともあり、クラプトンは完全にアルコール依存症になる。会食でも移動の機内でも、泥酔して周囲にからんだ。イギリスに戻ってからは、酩酊して運転し、自動車事故も起こしている。

 アルコールはミュージシャンとしてのクラプトンも蝕(むしば)んでいく。

 ライヴ中に体調を崩してしまい、引っ込んでしまうこともあった。

 また、ハワイでは女の子をナンパしたドラマーを脅かそうと、酔っぱらっておもちゃの日本刀を携え、上半身裸でベランダ伝いに襲撃。本物の暴漢だと思われ通報される。

 やがてまともにギターを弾けなくなった。

「エリック・クラプトン、飲み過ぎで演奏不能」

 全国紙で報じられた。それでもクラプトンは飲み続ける。当然身体を壊す。アメリカでは終演後に倒れ、5つの潰瘍からの出血が病院で確認された。そのうちの一つが膵臓を圧迫し、破裂寸前だと言われる。やむをえずツアーを中止して治療に専念。しかし、退院するとまた飲み始めた。

 ついに1982年、アメリカのアルコール依存症者を社会復帰させるための施設に入所した。自伝には、治療、カウンセリング、音楽と直接関係ない患者仲間との生活など、ここでの療養生活が詳細に語られている。でも、この人は懲りない。

 スタッフの目を盗んで施設内でも患者の女性たちと関係した。

愛息の死で依存症から復帰

 その後、息子が生まれたことなどもあり、一度はアルコールを抜くことに成功したものの、1987年にはまたしてもアルコール依存症に戻っていた。

「この頃には、私の身体機能は著しく低下し、震えが止まらなくなった。酒を飲もうと飲むまいと生活ができない状態になったのは、これが二度目だった。混乱していた私は、演奏に関しても辛うじてこなしているだけだった」(※1)

 愛する息子、コナーのために立ち直らなくてはいけない──。そう誓ったクラプトンは再びリハビリ施設に入所した。

 1991年、クラプトンに不幸が訪れる。愛息がアパートから転落して亡くなったのだ。このとてつもなく悲しい出来事が、クラプトンをアルコール依存症から社会復帰させるきっかけになる。

「私は突然、この恐ろしい悲劇を何か前向きなことに転換する方法を見つけたかもしれないことに気がついた。私は、“もし私がこれを経験して、素面(しらふ)でいられるなら、誰にでもできますよ”といえる立場に実際にいたのだ。その瞬間、私は、息子の思い出に敬意を示すにはこれに勝る方法はないことを悟った」(※1)

キース・リチャーズの友情

 アルコール依存症を克服したクラプトンは、1998年、アルコール・薬物依存症患者の治療施設「クロスロード・センター」を設立。自分と同じ苦しみを抱える患者のための活動を始める。

 1999年からは、施設を維持するためのチャリティ・コンサート、クロスロード・コンサートを開いて映像作品にし、自分のギターを売るオークションも主催。その収益を施設の運営に投じている。

 クラプトンはコナーを失った思いをつづった曲も生んだ。「ティアーズ・イン・ヘヴン」と「マイ・ファーザーズ・アイズ」だ。これらの曲はその後もずっとクラプトンのステージでは演奏され歌われている。

 代表曲の一つ「ティアーズ・イン・ヘヴン」は、コナーと天国で再会できたなら──、自分はふさわしい人間になるように強く生きていくと、語りかけるように歌われる。

 コナーが亡くなったとき、チャールズ皇太子やケネディ一族をはじめ、世界中から何千通ものお悔やみの手紙が届いた。

 そのなかの一通がクラプトンの目に留まった。

「何かできることがあったら、知らせてくれ」(※1)

 キース・リチャーズからだった。

 キースもまた愛する息子、タラを失っている。クラプトンの気持ちをほんとうに理解できる存在だった。

「私はこのことをずっと感謝しているだろう」(※1)

 クラプトンは語っている。

キース・ムーンの依存症伝説

 重度のアルコール依存症になっていたクラプトンが「完全に出来上がっている彼を見ていると、自分には何の問題もないような気にさせられた」(※1)と語った“彼”が、キース・ムーンだ。

 1946年にイギリスのロンドンで生まれたキースが17歳でザ・フーに参加したときには、すでにアルコールとドラッグの依存症が完成していたと伝えられている。1978年9月に32歳の若さでこの世を去るまでずっと飲酒をめぐる問題を起こしていた。

 すべてが酒のせいかはともかく、奇行、事件は枚挙にいとまがない。ホテルや自宅の窓から家具やテレビを放り投げるのは日常茶飯事。ツアーで宿泊するホテルの部屋はいつも破壊。テレビ番組出演時にはドラムセットを爆破。自分もメンバーも負傷。ヴォーカルのロジャー・ダルトリーは鼓膜が破れた。アメリカ・イリノイ州のホリデイ・インで自分の21歳の誕生パーティーを行い、ピアノを破壊し、消火器をまき散らし、リンカーン・コンチネンタルをプールに水没させる。サインを求めた若者を殴り、ランプも投げつけた。ホリデイ・インからは永久追放。自宅の窓をショットガンで破壊する。旅客機のコックピットに乱入。機長席を乗っ取り、今でいうところのエアドラムを披露して機外に追い出される。

 キースについてはピート・タウンゼンドが自伝にさまざまなエピソードを残しているが、酔っぱらっていないことはなく、アルコール依存症が進行するうちに演奏する体力も低下していった。

キース・ムーンを救出したロビー・ロバートソン

 1973年についに耐えられなくなった妻のキム・ケリガンが娘とともに去ったころから、キースの酒量はさらに増えたという。翌年には別の女性と結婚し、カリフォルニアのマリブに引っ越す。

 このときに隣人になったのが、ハリウッド・スターのスティーヴ・マックイーンだった。『パピヨン』や『タワーリング・インフェルノ』でキャリアのピークを迎えようという時期だった。彼の家にキースはバイクで突っ込む。不在の時は息子にマリファナを勧めて大げんかになった。マックイーンは隣人に恵まれない自分の不運を嘆いたに違いない。

 この時期、マリブでキースを監視していたのは、ローリング・ストーンズのベーシスト、ビル・ワイマンだった。

「ビル・ワイマンも同じ界隈に家を持っていて、勇敢なことにキースに目を光らせてくれた」(※2)とピートは自伝で振り返っている。

 しかし、キースは監視の目なんてすぐに盗めるということを証明したがっていた。ビルのすきをついて、自宅の3階から飛び降りる。

 仰天したビルが窓辺に駆け寄り地上を見下ろすと、あらかじめ用意していたらしいマットの上にキースが仰向けになって上を見ていた。

 この頃のキースについては、先日亡くなったザ・バンドのロビー・ロバートソンも『ロビー・ロバートソン自伝』で振り返っている。(※3、以下同)

 ザ・バンドのメンバーも、同じ時期にウッドストックからマリブに移住していた。ある日、ロビーがベーシストのリック・ダンコの家に寄ると、彼が不安な表情で迎えた。

「なあ、ちょっと手を貸してくれないか。二階の窓からおかしなものが見えたんだ。海岸に行ってみないと」

 リックが言い、二人はビーチへ向かう。すると、波打ち際で男が気を失っていた。波が顔を洗っている。放置したら溺死するだろう。

「脚をつかめ」

「砂の上に引き上げよう」

 二人で男の脚を一本ずつ持って引きずったそのとき、ロビーはそれが見たことのある男だと気づいた。倒れていたのはキース・ムーンだった。

 キースはナチスの制服に身を包み、完全に意識を失っていた。酩酊していたのだろう。顔の半分だけが日焼けしていた。

「あいつ、やっちまったよ」

 1978年9月7日、スタジオにいたピート・タウンゼンドのもとに、ロジャー・ダルトリーから電話が入る。

「あいつ、やっちまったよ」(※2、以下同)

 キースがこの世を去った。

 ポール・マッカートニーに招かれてパーティーに参加した翌日、アルコール依存症の禁断症状を抑える薬を飲んで昼寝して、そのまま息を引き取った。極端な性格のキースはそれを32錠も飲んだ。過剰摂取だ。

 ピートはこの結末を強く後悔している。

「今考えてみれば私は、キースが死ぬんじゃないかと長い間心配しながら、そんなことが現実になるなんて信じていなかったのだと思う。私は存在の根底から激しく揺すぶられ、すっかり動転していた」

 悔やんでも悔やみきれなかった。

「キースはみんなに迷惑をかけ続けたけれど、いつだって楽しいやつだった。そんな男がいなくなってしまった」

 絶対に替わりのきかない存在を失い、キースとの思い出が次々とよみがえる。

「残っていたのは、あいつの魂の気配。あのドラム。『フー・アー・ユー』でヘッドフォンをかぶり、笑いながら火の出るようなプレイをしていたキース」

 エリック・クラプトンは生き残り、キース・ムーンは自滅した。両者の差は紙一重だったのではないか。

 後編では、キッスの「酒浸りコンビ」についてご紹介する。

『不道徳ロック講座』(新潮新書)から一部を引用、再構成。

※1 『エリック・クラプトン自伝』(エリック・クラプトン著/中江昌彦訳/イースト・プレス刊)
※2 『ピート・タウンゼンド自伝 フー・アイ・アム』(ピート・タウンゼンド著/森田義信訳/河出書房新社刊)
※3 『ロビー・ロバートソン自伝 ザ・バンドの青春』(ロビー・ロバートソン著/奥田祐士訳/DU BOOKS刊)

神舘和典(こうだてかずのり)
1962年東京都出身。雑誌および書籍編集者を経てライター。政治・経済からスポーツ、文学まで幅広いジャンルを取材し、経営者やアーティストを中心に数多くのインタビューを手がける。中でも音楽に強く、著書に『新書で入門 ジャズの鉄板50枚+α』など。

デイリー新潮編集部

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