【どうする家康】本能寺の変のあと「信長」の子息たちがたどった悲惨すぎる運命

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 天正10年(1582)6月2日に勃発した本能寺の変は、たしかに明智光秀による織田信長への謀反だったが、その後の政局にあたえた影響の大きさでいえば、信長が討たれたこと以上に、嫡男の信忠の命が奪われたことのほうが大きかったと思われる。

 信長はすでに天正3年(1575)11月28日、織田家の家督を信忠に譲っていた。だから、信忠が生きながらえていれば織田政権は維持され、羽柴秀吉が天下をとることもなかったかもしれない。だが、そうはいかなかった。

 NHK大河ドラマ「どうする家康」の第28回「本能寺の変」(7月23日放送)でも描かれたが、信長(岡田准一)が討たれたとき、徳川家康(松本潤)は堺(大阪府堺市)に滞在していた。じつは、信長に先んじて上京していた信忠も、家康と一緒に堺に行く予定だったのである。ところが、堺行きを延期し、京都で父を迎えることにする旨を、5月27日に森乱(蘭丸=大西利空=)に伝えている(『小畠文書』)。

 その結果、信長父子がともに少ない手勢しか率いずに至近距離にそろい、光秀(酒向芳)は千載一遇の好機とばかりに謀反を決行したわけだが、信忠が予定どおりに堺に行っていたら、そもそも光秀は謀反を起こせなかっただろう。

 だが、本能寺の変が起きても、信忠は命を落とさずに済む余地があった。

 光秀が本能寺を囲んだとき、600メートルほど離れた妙覚寺にいた信忠は、父を救いに行こうとしたが、手遅れだと知ると、隣の二条御所に立てこもった。その結果、光秀の軍に囲まれて自刃している。このとき、水野忠重や鳥居元忠ら多くが妙覚寺から脱出しており、同様に信忠も逃げられた可能性が高い。ところが信忠は、光秀はすでに京都の出入口をふさいでいるだろうと考え、逃げなかったという(『当代記』)。

 実際には、数人の重臣にしか告げずに謀反を決行した光秀は、京都の出入口にまで手を回せていなかった。『当代記』は「安土への御移りにおいては別条あるべからざるところ、御運の末と覚えたり」、すなわち、安土に問題なく移ることができたのに、(命を落とされたのは)運がなかったことだ、と記している。

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