6・26「世界格闘技の日」 世紀の「猪木vs.アリ戦」で最も恩恵を受けたのは元祖「100円」商品

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「赤い絨毯を敷かなければ、試合には出ない」

 試合は世界40カ国以上で衛星中継。全米を中心に劇場での有料中継(クローズド・サーキット)も行われた(全米140カ所、カナダ40カ所、イギリス6カ所)。試合もアメリカ時間に合わせ、午前11時50分に開始となった。ところが、当日の朝になってアリ側から注文が出た。

「入場通路に赤い絨毯を敷かなければ、試合には出ない」

 当日は小雨で、「滑ったらどうするんだ」というのが理由だった。結局、猪木サイドはなんとか用意したが、ワガママ以外の何ものでもなかった。アリ陣営は直前になっても、この試合を中止させようとしていたのだ。

 アリもギネスブックに載ったことがあった。項目が「一夜にして儲けた額」。猪木と同じように思えるが、こちらはスポーツを含め全ジャンルでの最高記録である。認定されているのは1976年9月に行われたケン・ノートン戦で、650万ドル(当時19憶5000万円。現在の貨幣価値で約49億円)を得たという。

 この2年前、ザイールで行われたジョージ・フォアマン 戦、そう、あの伝説の“キンシャサの奇跡”ですらファイト・マネーは500万ドル(約15億円)だったが、ノートン戦が妙に高いのには前段からの流れがあった。猪木vs.アリ戦が行われたのがこの3ヵ月前。猪木側はアリに610万ドル(18億3000万円)でオファー。アリ側が「『600万ドルでは飲めないが、600万ドル以上ならOKだ』と言い、猪木側の条件に10万ドル上乗せした610万ドルで折り合いがついた」(日本スポーツ社「猪木-アリ戦の真実」より)という。

 そもそも、1975年3月7日付けのサンケイスポーツに載ったごく小さなコラムから口火を切ったこの一戦。その内容は、

《カシアス・クレイ(モハメド・アリ)が、われと思わん日本人選手と対戦しようといい出した》

 これに猪木が反応し、1年以上かけて実現させたわけだが、同コラム内には既に、

《日本の有望選手を育て、最終的にタイトルマッチ》《『日本の有望選手をオレの手で育てる』とまで(アリが)約束》

 とある。言ってみれば、アリとしては特に異種格闘技戦をやりたいと熱望したわけでもなかった。猪木は招かれざる客だったのだ。

 それは前述のファイト・マネーの差、そして当日のルールにも表出した。ヒジ、ヒザ、手の平、頭突き、立っての蹴りが禁止された猪木は、寝そべっての蹴り攻撃に終始し、試合は3分15Rを闘い抜いての引き分け。事前の各種会見でのアリの「勝ったらお前のワイフ(当時、女優の倍賞美津子)を頂く!」なるビッグマウスや、猪木がアリに松葉杖を贈るパフォーマンスも完全に逆効果となる。先に紹介した絢爛豪華な前振りやテレビ中継の38・8%という高視聴率も相俟って、翌日の新聞には試合内容に対する酷評が溢れた。

《スーパー茶番劇》(日刊スポーツ)
《真昼の欠闘》(サンケイスポーツ)
《世紀の上げ底ショー》(京都新聞)

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