自分の好きなところに出かけて生涯終われるんだったら、末は野垂れ死んでも…証言で振り返る「渥美清」の生き方

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「末は野垂れ死んでもいいんじゃないですかね」

 関さんの話から、実際の渥美さんは寡黙で哲学者のような人だったことが分かってきた。四角いトランクを提げ、桜が咲くと北に、紅葉とともに南にと、全国津々浦々でテキヤ(露天商)稼業をしていた「元気で明るいフーテンの寅さん」のイメージとは全く違うのである。

 私は芸能記者でも文化部の記者でもなく一介の社会部記者だったが、次第に渥美清という人間に興味を抱き、朝日新聞の紙面で寅さん映画や渥美さんについてあれこれ記事を書くようになった。当時の記事を読み返すと、「これでもか、これでもか」と物凄い量産だ。寅さん映画のロケ地となった葛飾柴又には何度も通い、駅前の居酒屋で地元の人たちと「寅さん談義」をするのが楽しみでもあった。

 朝日新聞に入って12年。同僚はデスクやキャップなどを務め、「社内出世の階段」を駆け上がっていたが、私は徹底して下町を回っていた。新聞記者というのは妙な稼業で、ある大事件をきっかけに事件記者に転じる人もいるし、大災害をきっかけに自然の仕組みを追う科学記者に転じる人もいる。私の場合は、渥美清という多面な顔を持った「深遠な人間」への興味が一連の寅さんシリーズを追うきっかけとなったのである。

 どこかで記事を読んでくださったのだろう。「お父さんのことをそんなに愛してくれてありがとう」と、渥美さんの奥様、田所正子さんから直接、携帯電話に連絡がきたことも私にとっては大きな励みになった。8月4日の命日には、関敬六さんや谷幹一さん(1932~2007)、浅草時代の元踊り子さんたちと一緒に、新宿区内にある渥美さんの墓参りに行った。

 取材を進めるにつれ、渥美さんは人知れず死ぬことを理想とし、戒名も望んでいなかったことがわかった。どこか自分の生き方や社会を醒めた目で見つめ、淡々としていたのである。60歳を過ぎ、がんを告知されてからは深遠なる思想家のようになっていったに違いない。

 周囲にこんなことを言っている。

「トンボのように、こう、ふらーっと、いつも自分の好きなところに出かけて生涯終われるんだったら、末は野垂れ死んでもいいんじゃないですかね」

「ひとり静かに、誰もいない山道をとぼとぼ歩いていくんだよ。そうすると、枯れ葉がね、チャバチャバと手品師の花びらのように落ちてくるんだよ」

 寅さんという架空の人物を演じ続けなければならない運命。あの四角い顔からは想像もできないような苦悩があったのだろう。

「メメント・モリ(死を想え)」というラテン語があるが、渥美さんは常に「自らの死」を意識しながら俳優という仕事を続けていたのではないか。さらに、若いころの強烈な体験も、彼の死生観に暗い影を投げかけていた。

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