阪神が優勝できなかった本当の理由…ドラフト指名の“失敗”を恐れて「暗黒時代」を招いたスカウト戦略

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評価基準は「甲子園で活躍した選手」

 1990年から2001年までの12年間、阪神は最下位8度を含む、Bクラスが11年という低迷期が続き、ドラフト1位で獲得した選手が軒並み伸び悩んだ時期があった。人気球団ゆえに、ドラフト指名での“失敗”を恐れ、他球団との競合を避けてしまう。さらに、「甲子園で活躍した選手」という、分かりやすい、つい誰もが納得してしまいがちな“無難な評価基準”を選んでいたことに原因があったという。『阪神タイガースはなんで優勝でけへんのや』(光文社新書)の著者で、スポーツライターの喜瀬雅則氏が“暗黒の歴史”を追った(前後編のうち「前編」)。

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 かつて、阪神の名スカウトだった菊地敏幸が担当した選手たちは、90年代後半から2000年代序盤の間、投打の主力級だらけの頃があった。

 投手なら、藪恵壹(三重/朝日生命/93年逆指名)、川尻哲郎(東京/日産自動車/94年4位)、井川慶(茨城/水戸商/97年2位)、野手だと坪井智哉(東京/東芝/97年4位)、赤星憲広(愛知/JR東日本/00年4位)、鳥谷敬(東京/早大/03年逆指名)。

 暗黒時代と呼ばれた90年代後半、菊地の獲った選手がいなければ、阪神はそれこそ一体どうなっていたんだ、と思わせるくらいの豪華キャストだ。

 菊地は法政二高、芝浦工大でプレーし、社会人のリッカーではコーチも務めているが、プロ野球でのプレー経験はない。その異例のキャリアながら、阪神のスカウトに就任したのは38歳の時、ちょうど昭和から平成に時代が変わった1989年のことだった。

 以来、2014年までの四半世紀にわたり、その敏腕ぶりを発揮し続けた。

“弱気なスカウト活動期”

 菊地は、関東地域の担当だ。裏を返せば、阪神の1990年代後半から2000年代にかけて、地元の関西エリア出身選手が目立たなかったということでもある。

「この当時だと、結局、獲りやすい選手を獲ってるんだよ。結果的にそうなるし、実際にそうだもんね。全然、こう、あえて他球団も評価しているのを、ぶつかって獲りに行こうという、そういう体制は確かになかったよね」

 その“弱気なスカウト活動期”として菊地が指摘した時期は、中村勝広、藤田平、吉田義男、野村克也が監督を務めた1990年から2001年までの12年を指す。最下位8度を含む、Bクラスが11年という「暗黒時代」だった。

 その中でも、阪神の大きな“失敗”の一つだったのが、1991年だった。ドラフト1位指名した大阪桐蔭高・萩原誠の評価に、菊地は疑問符をつけた。

「野手でいえば、1位だと全部が全部、長打力があって、足が速くて、肩が強いって、そうはいかないけど、高校生の場合は何か一つでも、だよ。(萩原)誠は、足が遅かったわけですよ。じゃあ、飛ばす能力が人一倍あるのかといったら、そこまでの能力はなかった。当然金属バットでやってるわけだよね。木になったときにどういう対応ができるのか。そこをスカウトは見なくちゃいけない。今の空振りだったら、当たったら150メートルは飛んでたぞ、とかね、そういう魅力が見えなかったんだよな、やっぱり」

 つまり、打でも守でも、突出した能力は感じられなかったというのだ。確かに総合力は高いのだろうが、特段、秀でた部分もあまり見いだせないというわけだ。
 
 菊地がスカウトに就任した直後の1990年代序盤は、同じポジションの有力選手が出たとき、それぞれの担当地域に足を運んで、その当該選手同士を比較する「クロスチェック」を、阪神ではまだ行っていなかったのだという。

 そうすると、当時の編成部内でのパワーバランスや、スカウトの“惚れ込み度”によって当該選手の指名が左右されてしまうのは否めない。

「甲子園で優勝だろ? 甲子園で数字を残しているとなると、自動的にもう、こっち、となっていくんだよな。流れちゃう。でも、その方が楽なんだ」

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