「安倍晋三元首相」暗殺の闇 なぜ祖父・岸信介は「統一教会教祖」の釈放嘆願書をレーガン大統領に送ったのか

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岸のトラウマ

 それでも、ここである疑問が残る。そこまで統一教会のヤバさを感じつつ、なぜ岸は、彼らとの関係を深めたのか。その裏には、戦後最大の政治イベント「60年安保闘争」があったと思われる。

 1960年の春、国会議事堂周辺は、まるで革命前夜のような混乱に陥っていた。連日、学生や労働組合員、一般市民ら数万人が集まり、議事堂や総理官邸を取り囲んだ。口々に「安保反対!」「岸を倒せ!」と叫び、路上は地響きすら感じられた。

 岸内閣が進める日米安全保障条約の改定、それが米国の戦争に巻き込まれるとの国民の懸念を呼んだ。与党の強引な国会運営もあり、大勢の群衆が詰めかけ、機動隊は放水と催涙ガスで応じる。

 渋谷の南平台にある岸の自宅にもデモ隊が押しよせ、それは孫の晋三にとっても強烈な記憶だったらしい。当時、晋三は小学校に入る前で、両親や兄と祖父の家によく遊びに行ったという。

「しかしそこも、しばしばデモ隊に取り囲まれることがあった。『アンポ、ハンターイ!』のシュプレヒコールが繰り返され、石やねじって火をつけた新聞紙が投げ込まれた」

「母とわたしたち二人は、社旗を立てた新聞社の車にそうっと乗せてもらって、祖父の家にいった。子どもだったわたしたちには、遠くからのデモ隊の声が、どこか祭りの囃子(はやし)のように聞こえたものだ。祖父や父を前に、ふざけて『アンポ、ハンタイ、アンポ、ハンタイ』と足踏みすると、父や母は『アンポ、サンセイ、といいなさい』と、冗談まじりにたしなめた。祖父は、それをニコニコしながら、愉快そうに見ているだけだった」(安倍晋三著、『新しい国へ』文春新書)

 だが、孫の前では好々爺(や)然としても、内心、岸のはらわたは煮えくり返っていたようだ。結局、その年の6月、新安保条約は成立したが、岸内閣は退陣に追い込まれる。そして晩年、あそこまでデモが盛り上がった裏には、中国とソ連の工作があったとふり返った。

「彼らが、安保改定の実現を阻止し、日米間にクサビを打ち込むために全力を傾けたことは、彼らにすれば当然の行動であった。確証を握っているわけではないが、このために彼らが投入した物量は、相当の額であろうと推測される。

 彼らは、共産党や社会党のような、日本国内の“外郭団体”はもちろん、労働組合内部のシンパに指令を与え、これらシンパが一般組合員や学生に工作して大衆運動の盛り上がりを図った。また、進歩的文化人と称せられるグループが、彼らのちょうちん持ちの役を演じた」(『岸信介回顧録 保守合同と安保改定』廣済堂出版)

 そして、これら文化人は、共産主義者のどう喝におびえ、政策も理解せず、時代の寵児と錯覚する「売文口舌の徒輩」と批判する。国会と自宅を取り巻いたデモへの恨みがにじむが、この60年安保が岸のトラウマになったのは間違いない。

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