「安倍晋三元首相」暗殺の闇 なぜ祖父・岸信介は「統一教会教祖」の釈放嘆願書をレーガン大統領に送ったのか

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「満州ギャング」

 1930年代、日本の傀儡(かいらい)国家、満州国に赴任した岸は、その経済運営を一手に担った。表向き、中国人の大臣がいたが飾りに過ぎず、実権は日本人の官僚が握った。石炭や鉄鋼、自動車など重工業の開発計画を練り、資金を配分し、企業を統制する。それを支えたのが満州の絶対権力者、関東軍だ。

 いわば金と権力、人脈を駆使する統治手法で、それをGHQの岸ファイルは、「軍事国家資本主義」「満州ギャング」と形容した。そのギャングの親玉を牢獄から出してくれ、という。これまた異様に聞こえるが、背景には当時の差し迫った脅威、共産主義がある。

 すでに東西冷戦が始まり、米国とソ連は世界中で鎬(しのぎ)を削っていた。岸釈放が要請された1947年はCIA(米中央情報局)が創設され、日本でも共産党が過激化していく。

 そうした中で占領初期、GHQの力点は、日本の徹底した民主化と軍備放棄に置かれた。すなわち政治犯の釈放と戦犯の逮捕、旧指導者の追放である。また農地解放や財閥解体、労働組合の育成など国家システムを改造してしまう勢いだった。

 これに対し、行き過ぎた改革は日本を弱体化し、かえって共産勢力を伸ばすとの懸念が出始める。特に戦前から三井、三菱財閥と縁の深いニューヨークの財界は不満で、米議会やマスコミを使って政界工作を行った。

 その結果、大物戦犯は釈放され、財閥解体は骨抜きになり、追放された官僚や実業家も続々と復帰していった。いわゆる占領方針の「逆コース」で、それを見事に示すGHQ指令書がある。

 1948年12月23日付けで、翌日のクリスマス・イブに、巣鴨拘置所の戦犯容疑者15名を釈放しろという。そのリストの中に岸信介、児玉誉士夫、笹川良一の名前があった。

 いずれもA級戦犯で、やがて岸は政界に復帰し、総理へ上り詰め、児玉や笹川も大物右翼として君臨した。そして、文鮮明が反共を掲げて創設した政治団体「国際勝共連合」を支援していった。

 こうして見ると、岸がレーガン大統領に送った文の釈放要請と、G2による岸の釈放勧告は一本の糸でつながる。東西冷戦下、不倶戴天の敵であるソ連との戦いだ。

 自由と民主主義を掲げる西側は絶対的正義で、何としても勝たねばならない。そのためなら満州ギャングだろうが、A級戦犯だろうが娑婆に出す。また霊感商法で、献金を強いられ、信者の家庭が崩壊しようと構わない。ましてや脱税など問題ではない。共産主義の脅威に比べ、そんなのは些事に過ぎないとの理屈だった。

 1982年7月、ニューヨーク連邦地裁は、脱税容疑で起訴された文鮮明に懲役18カ月、罰金2万5千ドルの実刑判決を言い渡した。70年代初め、米国内にある銀行口座の利子、そして統一教会の関連会社から受領した株式を所得申告に入れなかった容疑である。

 弁護側は、口座は教会に属し、文は管財人に過ぎず、そうした手法は他の宗教団体でも見られると反論した。判決を受けて上告したが、1984年5月、米連邦最高裁は棄却、文は同年7月からコネチカット州ダンベリーの刑務所に収監された。岸がレーガンに釈放を求めたのは、その4カ月後である。

 だが、それは決して彼一人の思いつきなどではなかったのだ。

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