「俺の女になれ」「バナナ」「アワビ」 改めて知っておきたい「セクハラの基準」
「バナナ」と「俺の女になれ」
2023年度に入った4月第1週、性的な発言に関するニュースが続いて報じられ、話題になった。
速報【独自】まだあった! 自民党都連に新たな「裏金」問題 萩生田氏は「当局から協力を求められれば真摯に説明すべき」
速報「NHKは番組作り過ぎ」「受信料は下げられる」 平均給与は1094万円、金融資産は9000億円の巨大組織を専門家が批判
一つは文春オンラインが伝えた黒岩祐治・神奈川県知事の「愛人報道」である。
知事選出馬前に黒岩氏には10年ほど不倫関係を続けていた女性がいた、という記事のメイン部分については、世間はさほど反応していない。関係が終わったのが2011年だというから、さすがに今それを問題視するのは、といった声が多く見られた。
むしろこの件で注目され、反響を呼んだのは、女性側が「情報公開」した、彼からのメールの文面だ。
「バナナ」「アワビ」「ホンバン」等々、官能小説か、どぶろっくのネタを連想させるようなフレーズが次々登場するあたりに、違和感や抵抗感、嫌悪感を覚えるといったコメントがネット上では多数見られたのである。
もう一つは、早稲田大学教授に対する「セクハラ訴訟」だ。
早稲田大学教授だった文芸評論家の渡部直己氏から、教え子時代にセクハラを受けたと女性が訴えたものだ。原告である詩人の深沢レナさんは、渡部氏のほか、大学の別の教授の対応にも問題があったとして大学側も訴えていた。
6日、東京地裁が被告側に命じた賠償額は60万5千円。原告の訴えの一部を退けたものの、セクハラにあたる発言があったことを認めたのである。
象徴的な発言とされているのが「俺の女にしてやる」。
渡部氏が指導教員だった時に、深沢さんに対して、「卒業したら女として扱ってやる」「俺の女にしてやる」と言い放ったとされており、これを裁判所もアウトと認定したようだ。
渡部氏は、この発言について、かつて雑誌のインタビューで次のように語っている。
もともと食事をしながら「与太話や論文や文学やの話をするというのは、僕にとってはいろいろな生徒にもしていること」なのだ、と(「映画芸術」2019年夏号)。
その対象となる生徒は男性、女性を問わないといい、
「たとえば『かわいいと言った』というのが、『セクハラ』に認定されてしまいましたが、それは男の学生についても、髪型変えてきたら『おお、かっこいいな』くらい言いますから、そこは男性についても女性についても同じですよ」(同)
このインタビューで、渡部氏は女性を傷つけたことには「頭を下げ」ると言いつつも、真意は異なると主張して、大学の処分(解任)には強い不満がある旨を語っている。
二つのケースは、セクハラに関する教訓を含んでいるといえる。
黒岩知事の「バナナ」等々の発言は、本来、たいていの相手にとっては「即アウト」のセクハラになるものだ。
特定の誰かに言うのではなくても、今どき、職場などでこの手のジョークを言う人はかなり珍しい。性別を問わず「ドン引き」されるからである。
しかし、今回、告発している元愛人女性は、これらについての恨み言は口にしていない。彼女の不満はもっぱら、ひどい捨てられ方をしたという点にある。
そもそも、かつてはそういう言葉の応酬を楽しめる間柄だったのだから、今になってハラスメントだと訴えるのはさすがに無理があるだろう。
渡部氏の「俺の女になれ」も、相手との関係性によっては、プロポーズの言葉にもなり得るし、喜ぶ女性もいるかもしれない。
しかし、いくら何でも40歳近く年上の指導教員が口にすれば、多くの場合はネガティブな反応が返ってくる。今回のように裁判沙汰になるリスクは当然存在する。「かわいい」という(本人としては)褒め言葉や親愛の情を込めたフレーズのつもりでも、アウトである。
先に引用したインタビューで、渡部氏は延々と、自分の気持ち、つまり何ら悪気はなかったということを説明しているのだが、その内心は、ことセクハラの認定に関しては関係ない。これが大原則なのだ。
数多くのハラスメント問題を扱ってきた弁護士・井口博氏の著書『パワハラ問題―アウトの基準から対策まで―』から、セクハラの定義についての解説を見てみよう(以下、引用は同書より)
「パワハラとセクハラには重なるところもある。強い立場の者がセクハラをすることは珍しくないからだ。しかし、定義を見た場合に両者には違いがある。
『相手が不快に感じればパワハラだ』と言われることがある。しかしこれは誤解である。
そうではなく、上司からの指示や指導が業務上必要かつ相当な範囲であれば、たとえ部下が不快に思ってもパワハラにはならない。
しかしパワハラはそうであっても、セクハラは違う。相手が不快と感じたときはセクハラになる。それは定義を比べてみるとわかる。
パワハラ防止法では、後でも述べるが、パワハラの定義は、
『職場において行われる優越的な関係を背景とした言動であって、業務上必要かつ相当な範囲を超えたものによりその雇用する労働者の就業環境が害されること』
となっている。
他方、セクハラの定義として、例えば人事院規則では、
『他の者を不快にさせる職場における性的な言動及び職員が他の職員を不快にさせる職場外における性的な言動』
となっている。
この両者の定義を比べてまず気がつくことは、パワハラには『業務上必要かつ相当な範囲を超えた』という要件があるが、セクハラにはこの要件がないことである。
ということは、定義上、セクハラは相手を不快にさせればセクハラになるが、パワハラは上司の言動が業務上必要かつ相当な範囲を超えなければ、たとえ相手が不快になってもパワハラにはならないということである。
仕事で部下に指示をしたとき不快になる部下はいくらでもいる。もし相手が不快になればパワハラになるとすると、仕事を指示して部下が不快になればそのたびに上司はパワハラをしていることになってしまう。そうなると、上司は部下のごきげんをうかがって、部下が不快にならないように気を使った指示しかできない。そのようなことは日常業務では不可能である。
このような定義の違いを頭に入れておかないと上司は必要以上におびえることになる」
ここでよくある疑問が「相手がセクハラと言ったら何でもセクハラになるのか」ということだろう。
ある政党の大会で市議が参加者の女性に、「銀座のクラブのママみたいだね」と発言したところ、セクハラと指摘された。これに対して市議は「なんでもかんでもセクハラって、一体なんなんだよ」と不満を漏らしたという。この不満は、上の疑問と直結するものだろう。
下手をすれば「いい天気だね」と声をかけただけで「気持ち悪い」と糾弾されるではないか、ということだ。この点についても井口氏は解説している。
「なぜセクハラは不快性だけで成立するのだろうか。その理由のひとつは業務との関連性にある。
相手を不快にさせるような性的な言動は業務とは何の関係もない。というより業務に入ってきてはいけないものである。そのため、とにかく相手が不快と感じたらストップをかけて水際で侵入を防いでいるのである。
ここでよくある疑問が出てくるだろう。先に挙げた『なんでもかんでもセクハラって、一体なんなんだよ。じゃあ女とは一言も話せないね』という市議の発言である。
この疑問は、セクハラの成立とセクハラの責任とを分けて考えないことからくる誤解である。
つまり相手が不快になればセクハラになるとしても、その言動をしたことでどこまで責任を負うかは別だということである。この責任というのは具体的には会社が懲戒処分などを科すことを言う。
セクハラの責任は、職場での平均的労働者がその言動で不快と感じるかどうかで判断される。もし平均的労働者が不快になるとは言えない場合はセクハラの責任までは負わない。
市議の『銀座のクラブのママ』発言はどうだろう。この市議の発言は、もちろん状況によるが、平均的な基準で見たとき、言われた相手は不快に感じるだろう。となればその発言はセクハラとして責任があることになる。
例えば上司が女性の部下に、『その服、似合ってるね』と言ったが、その女性はとにかく服装のことを言われること自体が不快だとする。このときにはその女性にとってこの上司の発言はセクハラであるが、上司にセクハラの責任まではないだろう。こう言われて喜ぶ女性もいるからである。
もし上司が、女性が不快に感じたことを知ったときには、『そうだったのか申し訳ない。不快とは知らずに言ってしまった。これからは言わないようにする』と言えば、ひとまずはよいだろう。
ただ相手が不快に感じたことを知った以上は、同じような言動をしてはいけない。その場合は、平均的労働者が不快と感じない言動であっても、相手がやめてほしいということを知った上での言動なので責任が生じる」
つまり常識の範囲内の言葉であっても相手の受け止め方次第で「セクハラ」だとされるリスクはある。ただし、常識の範囲内の言葉であれば、その責任を追及されるとまではならない。だから「いい天気だね」や「その服、似合ってるね」で賠償金を支払うことにはならないのは言うまでもない。
一方、教え子に対して「俺の女になれ」はもちろん「かわいいね」も、現代においては常識の外にあるのは間違いないだろう。後者について渡部氏は問題ないと思っているフシがあるが、今どき注意したほうが無難な言葉だというのが常識だ。
そして黒岩知事のケースではOKだった「バナナ」「アワビ」等々のジョークも、渡部氏が教え子に使えばやはりアウトとなる可能性は極めて高い。