90代を迎えた作家・五木寛之さんが考える「うらやましいボケかた」

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 先日、認知症の新薬がアメリカで承認されたことが大きな話題になった。

 世間の関心の高さはそのまま認知症への恐怖の表れといってもいいだろう。

 もっとも、現在90歳の作家・五木寛之さんは、そこまでの恐怖心を持たなくてもいいのでは、と考えているようだ。

 新刊『うらやましいボケかた』では、かつての文士の上手な「ボケかた」を紹介しながら、五木さん流の「ボケ論」を展開している。以下、同書から紹介しよう。

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ゆっくりしたボケかた

 初期のアルツハイマー病に効く新薬が承認されたニュースが新聞に出ていた。

 なんだか変な名前の薬である。ナントカマブといったと思うが、すぐ忘れてしまった。

 そのうち薬局の店先で、

「あのー、アルツハイマーに効く薬をください」

「えーと、あれですね、なんといったかな」

「ナントカマブっていったと思うんですが、さっき憶えたのにもう忘れてしまって」

「いや、わたしも何度も扱ってるんで憶えてたはずですが、ちょっと度忘れしてしまって。すみません」

 などと店員さんと客とがやりとりをする光景が見られるようになるかもしれない。

 私自身は、昔のことは比較的よく憶えているほうだ。いつも同じことを書いているが、戦争中の『軍人勅諭』だとか、モールス信号だとか、手旗信号だとか、余計なことは完璧に憶えている。

 そのくせ、直近の大事なことをすぐに忘れてしまうのは困ったものだ。三時と約束したのか、三時半だったのか、その辺がはっきりしない。何度もそういうことがあったので、手近かな紙にメモをしておいたのだが、そのメモをどこに置いたのかが記憶にないことがしばしばあって困ってしまう。

 いわゆるボケとアルツハイマー病とは同じではないらしいが、いずれにせよそのうちにボケない新薬も開発されるかもしれない。

物書きはボケ上手

 新薬のニュースが報じられるたびに思うのは、妙に変ったというか、発音しにくい妙な名前が多いことだ。なんとかマブ、とか舌が回らないような名前の薬も少くない。

 ボケ防止の新薬が発売になるときは、「ボケナイン」とか「ボケネマブ」とか、そんな憶えやすい商品名にして欲しいものだと思う。

 高齢者同士が街角でばったり顔を合わせて、

「やあやあ、どうも。お久しぶり」

「お久しぶりって、きのう会って話したばかりじゃないか。ポケナイン、ちゃんと飲んでるかい」

「ポケナインじゃない。ボケナインだ。そっちこそ大丈夫かね」

「そういえば、今日は飲むのを忘れたかもしれない。うーん、なんか心配になってきた。家に帰ってたしかめてみよう」

「あんたの家は、そっちじゃないだろ。しっかりしろよ」

 などという時代は、もうすぐそこまできているのだ。

 昔、といっても私が若手作家といわれた頃のことだが、物書きはみんなボケるのがうまかった。

「お原稿、いただきにあがりました」

「えーっ、締切りは今日だったっけ。てっきり明日の夜だと思いこんでいたんだけど」

「いや、何度もお伝えしてあります。きょうの八時までには、と」

「ごめん、ごめん、すっかり勘違いしちゃって」

「それじゃ、近くのお店ででも待たせていただきますので。朝までにはぜひ」

 といったやりとりもあって、昔は情緒があったものである。私はまだ若手と呼ばれている時代だったから、ボケた真似はできなかった。

 高齢期のガンはある意味で救いである、と書いていらっしゃるドクターがいた。なんとなくわかるような気がしないでもない。

 それと同じ意味で、ゆっくりしたボケは、そう悪いものではないのかもしれないと思ったりする。ここでいうボケとは、必ずしもアルツハイマー病のことではない。

人口減少の時代に

 フォーカスして世の中を見ると、なんとなく気が休まるような気がするのだ。去年の暮あたりから、世の中が妙にトンガッてきているような気配を感じるのは私だけではないだろう。

 洪水の前、というか、次第に水圧が上ってきている感じがあるのだ。こういう時には、あまり過剰に反応しないほうがいいような気がする。

 台風の予兆があっても、ジタバタするわけにはいかない。もちろん心構えは必要だろうが、ヒステリックになるのはどうかと思うのだ。

 以前、『下山の思想』という本を書いて、顰蹙(ひんしゅく)を買ったことがあった。世の中にまだ経済成長の気分が残っていた時代のことである。

 山は登れば下るしかない。いつまでも頂上に居坐っているわけにはいかないのだ。朝日も美しいが、夕日もまた美しい。人口イコール国力とは思わないが、かなり大きな要因であることはまちがいないだろう。

 結婚して子供をもつことを面倒だと思うような人々が増えてきたのは、否定できない事実である。女性の高学歴化と未婚率が比例するという統計も無視できない。

 結婚して家庭をもつということは、自分独自の自由を放棄して、人並みの幸福を掴むことだ。

 個性的な生き方をしようと思う人が増えれば増えるほど、人口は減少する。

 子供をもった家庭に、多少の経済的アドバンテージをあたえたところで、人口増には結びつかないような気がする。ここは国民がびっくりするような画期的な方策を考えるしかないのではあるまいか。

 家族というもののあり方を、根本的に変えるくらいの発想が必要かもしれない。それがどういうものであるのか、まだイメージがわいてこないのだが。

デイリー新潮編集部

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