“理想の上司”ランキングで突如3位に…アンミカ人気を分析して浮び上るコト

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逆境に屈しなかったアンミカの半生

 アンミカは在日韓国人で1972年に済州島で生まれた。韓国内の政治と経済が極めて不安定だった時期で、両親が仕事に恵まれなかったため、3歳の時に家族そろって大阪に移り住んだ。

 だが、来日後に父親が知人の保証人になったことから、大きな借金を背負わされてしまう。苦しい生活を余儀なくされた。

 きょうだいは年子で5人。アンミカは3番目だった。7人家族だったわけだが、4畳半1間で暮らした。そのうえ母親がガンを患ったため、中学から新聞配達のアルバイトを始めた。

「韓国人ということで差別に遭ったこともありました」(『婦人公論』2013年2月7日号)

 旧制中学の流れを汲む伝統校の大阪府立住吉高に進むと、バイトを増やし、放課後はコンビニやパン屋などでも働く。弟と妹の習い事代や小遣いを稼ぐためだった。兄と姉もバイトをして自分に教材費などを与えてくれたため、それを踏襲した。

「この話を人にすると驚かれます。けれども、働くことは生きるうえで当たり前のことと思っていたし、思い悩む暇さえなかったので、苦には感じませんでした」(同)

 さすがは「ポジティブ・モンスター」とまで評される人である。我が身の不遇を嘆くことなどない。

 住吉高は私服だったが、アンミカには自分の服を買う余裕がない。おしゃれをしたい年ごろなので、辛かったかと思いきや、やはり落ち込まなかった。

「あれこれ工夫して、服をつくってました」(テレビ朝日「徹子の部屋」2019年4月24日放送)

 愉快そうに語った。服が買えないことを服づくりの楽しさに変えた。また、服づくりは結果的にモデル業に生きた。アンミカは逆境をプラスに転化してしまう。

 テレビショッピング界でスターになった理由も根っ子は一緒。どんな商品であろうが、プラスに捉えて紹介するから、売る側はありがたい。買う側は自分では気づかない商品の良さが分かる。

 住吉高の大学進学率はほぼ100%であるものの、アンミカは進学せず、モデルになる。だが、仕事が全く来ない。そこで考えたのがパリ・コレクションへの出演だった。

 世界中のトップモデルが集まる祭典である。どん底からテッペンへの挑戦だ。これも逆境にめげないアンミカらしい発想である。もっとも、ツテはなかった。

「チケットと全財産の5万円だけを握りしめ、19歳の夏、フランスに飛びました」(『婦人公論』2013年2月7日号)

 どこまでもポジティブ。「陽キャラ」のように上辺だけの明るさとは異なる。事実、アンミカは常に笑顔だが、おどけたり、はしゃいだりはしない。

 そんなところが、現代人を惹き付けるのではないか。国内外に問題が山積しているため、視聴者側は将来に希望が持ちにくく、つい後ろ向きになってしまいがち。だから、無意識のうち、突出して前向きなキャラクターを求めているのだろう。

 19歳でのフランス行きは収穫を得られなかった、だが、それでモデルへの道を断念するような人ではなかった。

 ある日、勉強のため、学生たちが開いた京都でのファッションショーを見に行った。その時、ドイツ人の著名カメラマンであるロバート・ショーナー氏の目に留まる。気に入られ、写真を撮られた。

 それが端緒となり、イギリスの有名ファッション誌「i-D」の表紙を飾った。この表紙がファッション関係者の間で話題になり、念願のパリコレにも出る。20歳の時だった。あきらめなかったから、道が開けた

 以降、アメリカのモデル事務所に所属し、欧米や日本、韓国でファッションショーやCM、広告などの仕事を得るようになる。トップモデルの仲間入りを果たした。

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