大谷カメラの原点 「プロ野球中継の父」と言われるテレビマン・後藤達彦氏の類稀なる発想とは

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プロ野球中継が「ドラマ」になった日

 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が開催中だ。侍ジャパンのチケットは準々決勝分まで完売していることもあり、テレビ観戦する人が多いだろう。そのプロ野球中継の父は元日本テレビの故・後藤達彦氏である。「11PM」(1965~90年)の初代プロデューサーも務めた天才テレビマンだった。

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 テレビのプロ野球中継が始まったのは1953年8月23日。同年2月に開局したNHKが「阪急-毎日」のナイターを生中継した。だが、中継に演出が加わり、独特の文化となり始めたのは、1957年9月1日に日本テレビが放送した「巨人-中日」以降である。

 この試合は0対0で7回裏を迎えた。中日の投手はフォークの神様・杉下茂。打席には巨人の9番投手・堀内庄が入った。杉下は長らく肩を酷使したために球威が衰え始めていたが、相手が投手の堀内だから、簡単に抑えられると見られていた。

 ところが、堀内の打球はライトスタンドに飛び込む。茫然とする杉下。その瞬間、入社5年目のディレクター・後藤達彦氏は叫んだ。

「3カメ、ピッチャーだ!」

 ダッグアウト脇にある3カメ(3台目のカメラ)の担当者に杉下のアップを撮るように命じた。そこには神様(杉下)の痛々しい姿があった。打たれた後の投手にカメラが向けられたのは史上初のことだった。

後藤氏はプロ野球選手たちを人間として捉えた最初のディレクター。それまでの中継は試合の模様をストレートに伝えるだけで、味気ないものだった。

 ベンチ内の監督の表情やサインを初めて撮ったのも後藤氏だ。監督が選手のふがいないプレーに顔をしかめたり、審判の判定に憤ったりする様子が視聴者にも分かるようになった。

 ブルペン内を撮り始めたのも後藤氏。味方チームが急にピンチになり、慌てて肩を仕上げようとするリリーフ投手たちの様子も伝えられるようになった。

 後藤氏は中継にドラマの手法を持ちこんだのである。ドラマは登場する人物たちに喜怒哀楽があるから面白い。後藤氏は中継で選手たちの感情も映すことで、見応えのあるものにしようとしたのだ。

 これらの手法は先に中継を始めていたNHKも真似、後発組の民放も採り入れた。中継の人気が高まった。だから後藤氏は「プロ野球中継の父」とも呼ばれている。

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