草野球から“奇跡の復活”、「元ドラ1」野中徹博が歩んだ「不屈の野球人生」

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漫画家・水島新司氏の誘いで草野球チームに

 同年オフ、選手生命を賭けて肩を手術したが、元には戻らなかった。練習生を経て、88年秋から内野手に転向し、心機一転、背番号を「0番」、登録名も「野中崇博」に変えた。

 球団名がオリックスに変わった翌89年は、6月9日に発表されたオールスターファン投票の第1回投票結果で、1軍実績のない野中がパ・リーグ三塁手部門でトップになる珍事が話題になった。

 両リーグとも2軍の選手が上位にズラリと並ぶ不思議な投票結果は、「今の時期なら500票前後でトップに立てる」と誰かが意図的に大量投票したようだが、このとき、野中が内野手に転向した事実を初めて知ったファンも少なからずいたかもしれない。

 同年、野中はウエスタンで49試合に出場し、打率.327、3本塁打、17打点とまずまずの成績を残したが、シーズン後、戦力外通告を受け、1度も1軍の打席に立つことなく、24歳で現役引退となった。

 その後、札幌のラーメン店で修業、訪問販売員、広告代理店など職を転々とし、会社員時代に漫画家・水島新司氏の誘いで草野球チームに参加したことが、現役復帰への大きな足掛かりになる。

27歳にして現役復帰

 テレビ局の企画で、吉本興業の芸人チームと対戦したときに、9回にマウンドに上がった野中は138キロを計時し、周囲を驚かせた。数年間休めていた肩は、全力投球しても大丈夫なまでに回復し、自ずと「もう1度プロのマウンドに立ちたい」の思いが沸き上がってきた。

 阪急時代の番記者の紹介で、翌年の93年から台湾プロ野球に新規参入する俊国ベアーズのテストを受け、27歳にして現役復帰をはたした。

 当初は台湾で2、3年実績を残したあと、日本球界復帰のチャンスを待つつもりだったが、1年目に先発、リリーフで15勝4敗1セーブと大活躍すると、子供の頃から大ファンだった中日入団への道が開ける。

 翌94年2月14日、テスト生として参加したキャンプのシート打撃で打者10人を被安打1に抑え、見事合格をかち取った。

 そして、同年8月17日の巨人戦、チームが2対1と逆転した直後の8回からリリーフした野中は「こんな大事な場面で投げるのは、阪急時代にもなかった。(中京高で同期の広島・紀藤真琴ら)自分と同年の投手がたくさん活躍しているので、自分が彼らに負けるはずはない」と信じて投げ、8、9回を無安打無失点。通算7年目のNPB初セーブを挙げた。

 さらに10月8日の最終戦では、巨人と勝ったほうが優勝という“国民的行事”のV決戦で8回からリリーフ、地元・名古屋のファンの大声援を背に2回をゼロに抑えた。

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