門田博光さん逝去 昭和プロ野球の「サムライ」と呼ぶべき“信念”を貫き通した野球人生

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“不惑の大砲”

 野村監督がチームを去った78年から南海の4番を務めた門田さんは、翌79年の春季キャンプで右足アキレス腱断裂の重傷を負い、選手生命の危機に立たされる。

 だが、「これは神様がオレにちょっとだけ休む時間と、考える時間を与えてくれたんだ」と前向きに受け止め、病室で愛読した中国の古典書「菜根譚」の「茶は精を求めずして」(茶は極上品を求める必要はないが、茶壷に茶の葉が絶えないよう常に準備しておくこと)という言葉を胸に刻んだ。

 自宅でリハビリ中、「お父さんは本当に野球選手なの?」と尋ねた小学1年生の長男に、「ああ、そうだよ。来年はオールスターに出て、ホームランを打つからな」と約束した話もよく知られている。口にしてから自らのギプス姿に思い当たり、「しまった」と思ったが、もうあとには引けない。

 そして翌80年、復活をはたし、監督推薦でオールスターに選ばれた門田さんは、第1戦の7回に代打で登場すると、スタンドで観戦する家族の目の前で見事右越え2ランを放つ。

「約束しても打てるものじゃない。だから、いつ来るかわからない出番のために、必死でバットを振るしかなかった」というひたむきな準備が、“元祖”ベーブ・ルースもビックリの予告アーチを生んだ。

 81年7月には当時のNPB新記録・月間16本塁打、88年にも40代では史上最多の44本塁打、125打点で本塁打王、打点王の二冠に輝き、“不惑の大砲”と呼ばれたのは、ご存じのとおりだ。

「最後にお前に回したる」

 最後に筆者が一番好きな門田さんのエピソードを紹介する。

 南海時代の後輩・山本和範氏の著書「マイストーリー・マイウェイ─べった野球人生」(デコイブックス)で紹介されている話である。

 85年5月23日の近鉄戦、この日打撃好調の山本は、2回に先制2ラン、5回に満塁、6回にソロと3本塁打を固め打ちした。

 そして8回1死一塁、4番の門田さんが打席に入る直前、ネクストサークルの山本に耳打ちした。

「最後にお前に回したる。オレが出たら、スリーランを打て。そしたら、プロ野球史上初のサイクルホームランや。絶対にお膳立てするから、お前も絶対に打て!」

 25歳で近鉄を自由契約になったあと、バッティングセンターでアルバイトしながら練習に励み、努力の末、南海で遅咲きの花を咲かせた苦労人の後輩に、「史上初の快挙を達成して、近鉄を見返してやれ」と自ら進んでチャンスを与えようとしたのだ。ふだん滅多に口を開かない大先輩の思いやりあふれる言葉に、山本が感激したのは言うまでもない。

 自身が本塁打を狙ってもいい場面なのに、あえて単打狙いに徹した門田さんは、逆方向にゴロを転がしたが、打球はショート前へ……。右足故障から復帰して間もない門田さんは、それでもゲッツーだけは防ごうと、痛む足で一塁に全力疾走したが、併殺でスリーアウトになり、山本の最終打席は幻と消えた。

 直後、心からすまなそうに「悪かったな」と謝罪され、胸が一杯になった山本は、涙ぐみながら「門田さん、無理せんといてくださいよ」と繰り返したという。

 まさに“昭和プロ野球のサムライ”と呼ぶにふさわしい、自らの信念を貫き通した野球人生。心から門田さんのご冥福をお祈りいたします。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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