徳川家康は今川家の人質として苦難の少年時代を送った…はウソだった 近年、分かってきた本当の待遇とは

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 1月8日にスタートする松本潤・主演のNHK大河ドラマ「どうする家康」。第1回「どうする桶狭間」で、徳川家康 の一大転機となった桶狭間の戦いがどのよう描かれるのかが見ものだが、家康の少年時代の描き方にも注目したい。今川家の人質として不遇な少年時代を送ったと語られることが多いが、事実とは異なるようだ。【安田清人/歴史書籍編集者】

度重なる家康の「改名」

 家康は何度も改名を繰り返しており、桶狭間の戦いが起きた当時は「松平元康」と名乗っていた。

 幼名の「竹千代」から「元信」と改めたのは数え年で14歳のとき。元服を機に今川義元の「元」の字をもらい受けている。そして17歳のときに初陣を飾り、その直後に「元康」と改名。これは祖父・松平清康の「康」の字にちなんだものだろう。初陣の際には岡崎城に残してきた家臣たちを率いて戦っているので、この改名は松平家の当主としての自覚 と誇りを示した改名だろう。

 そして22歳のとき「元康」から「家康」へと改名。その3年前の桶狭間の戦いで今川義元は討ち死にし、家康は岡崎城に戻った。そして20歳のときに織田信長と同盟関係となり、21歳のときに今川家に置き去りしてきた妻の築山殿と子どもたちを岡崎に取り戻している。これは今川家との完全な手切れを意味していた。「元康」を「家康」と改めたのも、「義元」の「元」の字を捨てて信長と共同歩調をとるという意思表示だったと思われる。

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