小椋佳が最愛の妻と別居し“週末婚”を選んだ理由 タバコは1日2箱、毎日コーラを飲む「不健康人生観」

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食事代、宿代を浮かしたテクニック

 そこで、一計を案じました。仲良くなった学生から実家の住所を聞き出し、その親御さんに宛てて、こんな手紙を書いて送ったのです。

〈私は息子さんとお友達になりました。息子さんのお話に出てくる故郷の風景を是非とも見に行きたく、今度、お近くまでお伺いしようかと思っています〉

 その後、お目当ての街に行くと、手紙を受け取った親御さんが待っていて、「ぜひウチに寄っていかないか」と言ってくれる。そこでついていって、まず食事をごちそうになるわけです。

 そして、食事の席では、親御さんが決まって「今日はどこに泊まるんだ?」と聞いてくる。健気に「近くのYMCAに泊まるつもりです」なんて答えると、「どうして、そんなところに泊まるんだ。息子の部屋が空いているから泊まっていきなさい」と必ずこうなる。そうやって、宿代と食事代を浮かせたものです。

 そんなふうに友人たちの家々を渡り歩く旅の途中、とある田舎町でバスに揺られているときに、こんな歌詞が浮かんできました。

〈夢の語らいは 小麦色した帰り道 畑の中のもどり道 ウォーターメロンの花の中に 数えきれない長い年月 うたた寝をする ものなのです〉

 のちに代表作のひとつとなる「俺たちの旅」の一節ですが、これはコカ・コーラを相棒にした放浪旅から生まれたものだったのです。

歌手活動をやめるよう迫られ…

 そうして、バスで北米大陸をまわる一方、日本では私の処女作「青春―砂漠の少年―」が発売されることが決まりました。

 しかし、当時は、銀行員が副業するなんてもってのほか。人事部も最初は優しく見て見ぬふりをしてくれていたのですが、週刊誌で騒がれると、社内でも次第に問題視されるようになりました。ついに、人事部長から呼び出される事態に発展。「小椋 佳」としての活動をやめるように迫られたのです。どうしても納得できなかった私はこう抗弁しました。

「歌を作ることは、日記をつけることと一緒です。サラリーマンが日記をつけてはいけないという法はないでしょう」

 しばらく話し合いが続いたのですが、最終的には“顔出ししないこと”を条件に、活動続行を認めてもらうことができました。

 よくマスコミからは、銀行員とシンガーソングライターの“二足のわらじ”と言われたものです。でも、私の本業はあくまで銀行員。曲作りは、禄(ろく)を食(は)むための仕事ではなく、自己表現のための活動でした。私にとって「仕事」と「表現」は、比べるべくもない全くの別物なのです。

 ただ、銀行勤めを続けるうちに、個としての自分が組織人としての生活によってだんだんとむしばまれていきました。もう一度、個の自分を見詰め直したい。そう決意して、銀行を飛び出したのは49歳の頃です。組織人としては「見るべきほどのことは見つ」といった心境でした。

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