「俺は27億円で竹下政権を作った」 政界タニマチ・東京佐川急便「渡辺広康社長」のかわいそうな最期

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残した48億円も

 石井会長との関係は、しかし、渡辺が破滅へと突き進む入り口になった。

「渡辺さんはそれ以来、金づるになってしまい、債務保証やら、ゴルフ場を建設するための融資やら、東急電鉄株や本州製紙株の仕手戦の資金やら、稲川会に流れたカネは、最終的には2千億円を超えるまで膨らんだんです」

 ところが、90年ごろから石井側からの利息の支払いが滞るようになると、渡辺はにっちもさっちもいかなくなったのである。

「90年3月に総量規制が始まると、それまで“頼むから借りてくれ”と言っていた銀行が、手のひらを返すようにカネを出し渋ってね。私も資金繰りに困って渡辺さんに“36億用立ててもらえないでしょうか”とお願いに行くと、“50億くらいあったほうがいいだろ”と言うので、“それくらいあれば助かります”と答えたら、“いついつまでにはなんとかしてやる”と。“あれっ”と思いましたね。翌日ポンと振り込んでくれた人が、いついつまでなんて初めてでしたから。その後、もう1回頼むと、“4月21日までにはやってやるから”と言われましたが、期日に振り込まれませんでした。そこで、もう一度事務所に行くと“もう半年待て”。私はその帰り道に腹をくくりましたね」

 この関係者の会社は、間もなく倒産した。一方、渡辺のもとにも、実際、ポンと振り込めるようなカネは残っていない。もはや、転落するほかなかった。

 91年7月、緊急取締役会と株主総会で社長を解任されたのに続いて、会社側から商法の特別背任で東京地検に告訴され、受理される。前後して妻と離婚し、間もなく、4千億円を超える債務保証が明らかになって、92年2月、特別背任容疑で東京地検特捜部に逮捕されるのだ。

 だが、政界に数百億円をばらまいたといわれながら、金の受け渡しは必ず自分自身で行うなど慎重だったのが“幸い”したか、明らかになったのは金丸信への5億円の献金にとどまった。

「93年11月に渡辺さんは保釈されましたけど、その後、恵比寿の会員制サロンで見かけたときは、もう全然精彩を欠いてね。本当に同じ人かなって思うくらい、オーラがなくなっちゃっていました。それでも保釈されたとき、48億円くらい残していたそうなんですけど、そのうち半分くらいは横浜で運送会社をやろうとして失敗しちゃって、残り20億円は勧められるままに配当目当てで投資に注ぎ込んで失くした。だまされちゃったわけですけど、あれだけの大金を動かしてきた人だから、じっとしていられなかったんでしょうね」

 最高裁で、懲役7年の実刑が確定したのは、2003年3月。だが、収監されることなく、膀胱がんのために04年1月に亡くなった。享年69。

「保釈後は世田谷の豪邸で暮らしていたけど、コリアンクラブ出身の女性と一緒にいたと思ったなあ。でも、その豪邸も競売にかけられて、手放しちゃった。私のように親しかった人の間でも、亡くなったのは何週間かあとまで知らされなくてね。あれだけの人だったのに、かわいそうな最期だったと思います」

 泡と消えたかのような人生だった。

デイリー新潮編集部

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