元中日、近鉄の「尾上旭さん」逝去 「中日・巨人の天王山決戦」「伝説の10・19」に出場した“好打者”

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仰木彬監督の“恩情”

 その後の尾上さんは、85年9月26日の阪神戦で、延長10回に三塁線を抜くサヨナラ打を放ち、モッカが退団した翌86年には三塁の定位置獲りに挑んだ。

 しかし、3試合で7打数3安打2打点と上り調子だった8月24日のヤクルト戦で高野光から頭部死球を受けてからは、踏み込んで打てなくなり、不振が続く間に、投手から転向2年目の仁村徹に追い抜かれた。

 そして、87年オフ、引退を考えていた矢先に近鉄へのトレードが決まり、「もう一度頑張ろう」と決意を新たにする。

 近鉄も内野陣が充実し、出番は限られたが、88年は開幕直後の阪急戦で延長10回に決勝打を放ち、“伝説の10・19”にも出場。翌89年には2度目の優勝も経験し、「近鉄の4年間が一番楽しかった」と振り返る。

 実は、移籍3年目の90年限りで戦力外になるところだったが、仰木彬監督が「もう1年プレーすれば10年になって、プロ野球年金(2011年に廃止)の受給資格を得られるから」と首をつなげてくれた。

 指揮官の“格別の恩情”について、尾上さんは「仰木さんは何も(理由を)言わなかったけど、試合に出ていないときでもベンチで声を出して、ムードを盛り上げていたのを見ていたのかもしれない」と語っていた。

 仰木監督は、前出のお好み焼き店オープン後にも、電話で「オノの店、成田に近いのか? 今度行くからな」とエールを贈っている。95年3月の開店日には、中日時代の星野仙一監督から大きな花が贈られた。常に明るく、気配りの人でもあった尾上さんは、多くの野球人から愛されたナイスガイだった。

「選ばれていいのかな?」

 筆者も「ドラフト1位特集」や「プロ野球選手に会える飲食店」の取材はもとより、プライベートでも毎年銚子に足を伸ばした。

 最後にお会いしたのは、2018年5月。この日は吉祥寺のとんかつ店など、大学時代の思い出話に花が咲いた。興が乗った尾上さんは、書棚から中央大野球部の歴史を特集したムック本を持ってきて、「中央の歴代ベストナインの遊撃手に自分が選ばれている。プロで活躍できなかったのに選ばれていいのかな?」と謙遜気味に尋ねた。

「通算14本塁打は当時の東都リーグ歴代2位(現8位)だし、通算105安打(歴代7位)も記録しているから、この選考は妥当です」と筆者が答えると、尾上さんは何も言わなかったが、会計時に料金を安くしてくれた。おそらく、自身が選ばれた理由に気づいていた尾上さんは、第三者からも同じ答えを聞きたかったのかもしれない。

 1981年春の神宮球場。0対1とリードされた試合後半、内野安打の走者を一塁に置いて、尾上さんが重苦しいムードを一気に吹き飛ばす起死回生の逆転2ランを放った。「やったあ!」という応援席の大歓声を背に受けて、笑顔でベースを1周する尾上さんの姿が今も瞼に鮮明に焼き付いている。

 尾上さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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