“トレード会議”は「やる意味がない」とわずか3回で中止…現役ドラフトは同じ轍を踏むのか?

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掛け声倒れに終わる懸念

 12月9日にプロ野球の第1回「現役ドラフト」が開催される。実力をアピールする機会がなく埋もれている選手に新天地でチャンスを与えるのが目的とされるが、元巨人の上原浩治氏が「大事なバックアップ要員を、他球団ならレギュラーで活躍できるからと、簡単に手放すわけにはいかないだろう」と疑問を呈したように、画期的なトレードが成立せず、掛け声倒れに終わる懸念もある。

 実は今から50年以上前にも、「現役ドラフト」同様、トレードを目的とした会議が開催されていた。選抜会議(通称・トレード会議)と呼ばれるもので、「12球団の戦力均等化」を目的に当時のロッテ・永田雅一オーナーが提唱し、1970年11月のドラフト後に第1回が開催された。

 対象となるのは、各球団の支配下選手(練習生も含む)の20パーセントで、60人なら12人(端数は四捨五入)のリストをコミッショナー提出。各球団は事務局が作成した選手名簿をもとにウエーバー順で指名を行い、1巡目はその選手の年俸プラス200万円、2巡目はプラス100万円(3巡目以降は不要)のトレードマネーが派生するルールだった。

「現役ドラフト」の「各球団2人以上」に比べて、人数が5倍以上と多く、毎年130人を超える選手がリストアップされたが、結果から先に言うと、これほどの人数の選手が対象になったにもかかわらず、肝心のトレードは毎年低調で、会議はわずか3年で終わりを告げている。

ほとんどが2軍クラス

 70年の第1回では、トレードマネーがネックとなり、全球団が「最高でも100万円以下にしなければ」と1巡目指名を回避。2巡目になって、ようやく大洋が「ふつうのトレードだと、もっとトレードマネーを支払わなければならない」(別当薫監督)という消極的な理由で、阪神の8年目右腕・鏑木悦純を指名した。

 そして、トレードマネーがかからない3巡目で7球団、4巡目で6球団が指名を行い、計14選手が指名された。14人中、1軍で名の通っていた選手は、高山忠克(ヤクルト→阪神)、小泉恒美(南海→中日)ぐらいで、ほとんどが2軍クラスだった。

 国鉄時代の64年に18本塁打を記録した高山は、70年は61試合出場の打率.131、0本塁打に終わっていたが、阪神・村山実監督が「ウチはよく打たれた記憶があるので拾い物です」と新天地での再生を期待した。

 だが、高山は翌71年のシーズン中、ギャンブルによる多額の借金が原因で失踪し、無期限失格選手になる。実績十分の1軍選手がリストアップされたのは、“わけあり”だったようだ。

 一方、会議の本質をよく理解していたのが、南海・野村克也監督だった。「欲しい選手なら、即戦力というより、縁の下の力持ち的存在が必要だよ」と手薄な控え捕手に狙いを定め、ロッテの捕手・里見進を指名した。

 里見は4番手捕手ながら、小山正明、木樽正明、成田文男のエース三本柱のブルペン捕手を務めていたばかりでなく、打撃投手としてロッテの強力打線を支えていた。

「ブルペンで受けていて、三本柱の(癖や)調子を一番よく知っている男だ。その点からいっても、大変貴重な戦力になる」(野村監督)と後のID野球にも通じる“目に見えない部分”に主眼を置いた補強を行っている。

 14人の中でも異色の経歴で知られるのが、中日に指名された阪急の内野手・斎藤喜である。「体力の限界」を理由にすでに引退を申し入れており、中日移籍を断って現役引退後、消防士に転身し、95年の地下鉄サリン事件の際には、救急隊長として出動している。

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