2年前に亡くなっていた「白木みのる」さん 本人が語っていた“てなもんや人生”

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チャンネルを一つだけ削る

 白木をスターの座に押し上げた「てなもんや三度笠」は、高度経済成長時代の真っ只中、昭和37年に始まった。原作は脚本家の香川登志緒。演出は澤田隆治という関西喜劇界きっての異能が担当した。沓掛時次郎をもじった、あんかけの時次郎を藤田まこと、小坊主・珍念を白木みのるが演じた。藤田は昭和8年生まれ。白木の一つ年上である。

 この凸凹コンビが繰り広げる爆笑の珍道中はアッという問に全国の視聴者の心をつかんだ。レギュラー陣には、財津一郎、南利明、原哲男、伴淳三郎、堺駿二。ゲストには、榎本健一、てんぷくトリオ、漫画トリオ、かしまし娘、柳家金語楼などが週替わりで出演した。

「収録は大阪・中之島のABCホールで、毎週金曜日の昼12時15分からやっていました。ビジネス街にありましたから、昼休みの若いサラリーマンたちがパンと牛乳を持ってホールにやって来るんです。食いながら笑い、12時45分に録画が終われば、みんな仕事にヒューッと戻っていきました」

 毎週、テレビから流れてきたあの大爆笑は、中之島や北浜の若いサラリーマンやOLたちの笑い声だったのである。

〈俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー〉

〈ヒッジョーに、キビシーッ〉

 など次々に流行語を生み出し、関西地区では最高視聴率64.8%を記録するほどの人気番組は、NHKも無視できない存在だった。

 昭和38年大みそかの紅白歌合戦。番組が中盤に差しかかった時、カメラは大阪の法善寺横丁を映し出す。紅組司会の江利チエミが、

「てなもんやのお兄さ~ん!」

 と呼びかける。カメラは店内で年越しそばをたぐる藤田まことを映し出す。藤田は応える。

「大阪はみんな女性を応援していますよ。大阪は紅一色でっせ」

 白組司会の宮田輝が混ぜっ返す。

「藤田さ~ん、辛いことを言ってはる。無理せんといて~」

 何とも和やかなやり取りだが、視聴者はある種、違和感を覚えた。“てなもんやのお兄さん”の傍らにいるべき人間が、いなかったからである。

「近所の人に“あんたなんで出なかったの?”と言われて(藤田まことの紅白出演を)知りました。僕にはNHKから声がかからなかったんです」

 白木は続ける。

「NHKが僕を出さなかった理由はわからない。身障者か何かに見られたんじゃないですか。直接は聞いていませんが、吉本の誰かがNHKの人にそう言われたそうです。僕が出ると視聴者に不快感を与えるとか。当時随分、腹が立ちました。NHKには一切出たくないと思いましたね。受信料を払うのはやめましたし、大人げないですが、NHKが一切見られないように電器屋さんにチャンネルを一つだけ削ってもらったんです」

 昭和43年3月、絶大な人気を誇った「てなもんや三度笠」は終了する。と同時に白木は吉本を去った。

「東京に出たかったんです。井の中の蛙にはなりたくなかった」

 東京での活動は舞台が中心となった。

「島倉千代子さんや三波春夫さんの舞台などに出ました。北島三郎さんの舞台は今まで37年間、ずっと務めさせてもらっています」

 一方、「てなもんや三度笠」で共演した藤田まことは、新境地を開拓していく。「必殺」シリーズの中村主水役、「はぐれ刑事純情派」の安浦刑事役などは当たり役となった。

 他方、白木は舞台などで多忙な日々を送っていたが、民放局からもほとんど出演依頼は来なくなった。テレビ局が放送禁止用語を生み出し自らを縛っていくのと時を同じくして、異形の役者もまたテレビ界から消されていったのである。

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