2年前に亡くなっていた「白木みのる」さん 本人が語っていた“てなもんや人生”

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芸名“ミサイル小僧”

 流しの仕事が忙しくなり中学には行かなくなった。

「そのうちドサ回りの劇団から声がかかりました。当時、歌を歌ったり、コントをやったりする歌謡劇団というのがあったんです。入って関西方面を回りました。尼崎の芝居小屋でやっている時、大阪のキャバレーの歌手が倒れたので、歌いに来てくれないか、と言われたんです。行くと大劇の支配人が飲みに来ていて、声をかけられたんです」

 大劇(大阪劇場)は千日前にあり、大阪松竹少女歌劇(OSSK)が本拠地とする大阪の代表的劇場だった。その大劇場の支配人から話しかけられたのである。

「“あんた、歌うまいなァ。ウチで(中田)ダイマル・ラケットと森光子、藤田まことがドラマやってるけど、あんた、出てくれないか”と言われたんですよ」

 ドサ回りの歌手にチャンスが巡ってきたのである。

「大劇では、三橋美智也の『夕焼けとんび』を歌ったんですよ。気に入ってもらい専属になりました。“もっと声楽の勉強をしなさい”と言われ、OSSKの先生について発声の練習をしました。芸名は、“これからはミサイルの時代だ”と言われて“ミサイル小僧”と付けられたんですよ」

 大劇に出演する傍ら、吉本興業の紹介で村祭りなどの余興の仕事もしていた。

「そういうところでは僕はウケるんですね。そのうち余興が忙しくなってきまして、吉本から“ウチに来ないか”と誘われたんです」

 23歳の時だった。

「白木みのるという芸名は自分で考えました。本名は柏木ですから、柏をバラして白木、何か実ったらいいだろうということで、ひらがなでみのると名乗ることにしたんです。名前って面白いもので、変えて1週間目にテレビのレギュラーが入ったんです。ミヤコ蝶々先生の『あっばれ蝶助』(関西テレビ)という番組で、狸が化けた小坊主の役でした」

 昭和34年である。その2年後、給仕役で人気を博したのが、大阪朝日放送の「スチャラカ社員」。海山物産という商社を舞台に繰り広げられるドタバタ劇だが、女社長役を演じたのは同じくミヤコ蝶々だった。

「僕は師匠というものを持ったことがなかったので、蝶々先生のところに押しかけて弟子にしてもらいました。先生は気が短くてうるさい人でしたよ。ある時、弟子同士でちょっとけんかしたら、“お前は年上なんだから黙っていなさい!”と怒鳴られましてね、縁側に立っていた僕は、先生に後ろからポンと突かれて、庭の池に放り込まれたんです。5月か6月で、まだ寒かったですよ。そのうち雨が降ってきまして、池、冷たくてね。でも、先生に“しばらくそこにおれ!”と言われたからしょうがない。池の中の鯉が僕の足の指を餌と間違えて吸うんですよ。2時間ぐらい経って先生が風呂を沸かして入れてくれました」

 そんな白木の付き人を務めていたのが、若き日の西川きよしだった。

「今と同じで、眼だけギョロギョロさせてたね。こんなことがあった。蝶々先生とテレビのリハーサルに行った時のこと、西川が僕のことを“先生”って呼んだらしいんです。蝶々先生は自分のことかと思って、“なんや”と答えた。そうしたら西川が“いやいや、蝶々先生やのうて、ウチの先生でんねん”といったのです。そうしたら、蝶々先生が怒って、“はあ、お前も偉うなったもんやな! お前も先生か! お前が先生ならアタシは何だ!”とえらい剣幕でして、僕は"すみません”と必死で謝りましたが、それ以後、僕のことを先生と呼ばせないようにしたんです」

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