主演・沢田研二、料理監修・土井善晴――映画「土を喰らう十二ヵ月」(絶賛公開中)の原案を書いた作家・水上勉の数奇な人生と料理哲学

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『雁の寺』『飢餓海峡』『白蛇抄』――数々のベストセラーを残した作家・水上勉(みずかみ・つとむ、1919-2004)には映画やドラマの原作となった小説が少なくないが、今回の「土を喰らう十二ヵ月」はエッセイをもとにしたチャレンジングな映像化だ。

 1978年に刊行、82年に文庫化されて以来、37刷、30万部近いロングセラーとして、今なお版を重ね続けている名エッセイ『土を喰う日々』(新潮文庫)である。

 映画では、信州の山中で暮らす作家(沢田研二)のもとを食いしん坊の女性編集者(松たか子)が時折訪れる。四季折々の山菜やキノコ、自ら畑で作った野菜を料理し、食を共にする。料理を担当するのは、料理研究家の土井善晴という豪華キャストだ。

 原案のエッセイは、信州に暮らす水上が、自らの手で作る日々の料理について記したものだ。女性誌の編集者に、1年間こもってその料理をつぶさに書いてほしい、と依頼されてのものだという。

 今ほど男性が料理するのが当たり前とはいえなかった時代、昭和期を代表する人気作家が、なぜエッセイを依頼されるほど料理上手だったのか。それには理由がある。

 水上は福井・若狭の貧しい家に生まれ、幼い頃に京都の禅寺に小僧として入る。そこで覚えることになったのが精進料理だった。修行の一環か、日々の寺の食事を作るのを手伝ううち、いつの間にか料理の腕を身に付けていたという。

 時には厳しさのあまり逃げ出すこともあったが、その当時、本を読みふけったことが作家としての礎になったというから、人生はわからない。

『土を喰う日々』は、こんな文章から始まる。

 ***(以下引用)***

 九つから禅宗寺院の庫裏(くり)でくらして、何を得したかと問われれば、先(ま)ず精進料理をおぼえたことだろう。禅宗は小僧を養育するのに、むずかしいことはつべこべいわずに日常の些細(ささい)のなかへむずかしいことを溶かして教えるところがある。たとえば、何かを洗ったあとのわずかな水でも、横着に庭へ捨てたとする。見ていた和尚(おしょう)や兄弟子は一喝する。馬鹿野郎、粗末なことをするもんじゃない、と。物を洗ったあとのきたない水だから、もったいないもあったものではない。なぜ叱(しか)られたかわからぬ。するとつづいてこんな言葉がかえってくる。一滴の水でも、草や木が待っておる。なぜ、考えもなしに、無駄に捨てるのか。どうせ捨てるなら、庭へ出て、これと思う木の根へかけてやれ。

 ***(引用終わり)***

 中学を卒業後に寺を出て、立命館大学文学部国文学科に学びながら、職業を転々とする。満洲に渡るが、結核を患い、敗戦後の混乱と紆余曲折を経て執筆活動に入る。禅寺時代の体験や、世間の荒波にもまれた経験が、花街を舞台にした作品や、社会派推理小説に連なっていった。

 長年付き合いのあった編集者によると、水上は、率先して人を集めるようなタイプではないが、不思議と周囲に人が集まってくる、女性にも男性にもとにかく「モテる」人だったという。さりげない気配りとともに、人を和ませる印象があったそうだ。

 エッセイでも書かれているが、手際良く来客に料理を作る機会もあったようだ。映画でも、その土地が生んだ素材を生かす精進料理を自然体でふるまうシーンが印象的だ。

 エッセイには、こんな文章もある。

 ***(以下引用)***

 ぼくが、こんどやってみた、蕗(ふき)の薹(とう)のあみ焼きはおもしろいではないか。形のいいのをえらんで、串に二つ三つさし、サラダオイルにつけてから、唐辛子を焼くみたいにあみ焼きするのである。色が変ってきて、狐いろになるころ皿へ盛り、わきに甘い味噌を手もりしておくのである。酒客でよろこばぬ人はめったにいない。

『土を喰う日々』二月の章より。本書中には写真あり)

 ***(引用終わり)***

 ある時、若い編集者が土産に家人が作った梅干しを持参した時のことだ。水上は小皿の上に一粒を取り出し、じっと眺めている。しばしの沈黙のあと、「これは、合格です」。けげんな顔をしていると、「梅干しは、見ているだけで唾がたまってくるようでなくてはね。小さい頃、親しか口にできない梅干しを横でにらんでいたときの名残り」。そういってニッコリと笑ったそうだ。タイトルにある「土喰う」にはこんな思いがこめられている。

 ***(以下引用)***

 何もない台所から絞り出すことが精進だといったが、これは、つまり、いまのように、店頭へゆけば、何もかもが揃(そろ)う時代とはちがって、畑と相談してからきめられるものだった。ぼくが、精進料理とは、土を喰うものだと思ったのは、そのせいである。旬(しゅん)を喰うこととはつまり土を喰うことだろう。

 ***(引用終わり)***

 エッセイにもじっくり目を通し、映画では初めてという料理監修に臨んだ土井善晴はこう語る。

「土と生活がつながっている感じが、細部にまで表れていると思います。そもそも料理というものは、誰が作ったということはさほど重要ではありません。だから、この映画では、人間の作為よりも先に自然がこれを作れと教えてくれているものを作りました」

 土井氏もまた、料理にかかわる者としてさまざまな紆余曲折を経て「一汁一菜でよい」という思考にたどりついた(『一汁一菜でよいという提案』『一汁一菜でよいと至るまで』、いずれも新潮社刊)。

『土を喰う日々』――エッセイも、映画も、値段や豪華さとは次元のちがう、「料理すること」「食べること」について考える絶好の作品といえるだろう。

デイリー新潮編集部

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