プロ野球分裂の危機を救った小林繁 「江川事件」でトレードされた瞬間のエピソード(小林信也)

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 小林繁の名を聞けば“江川事件”を思い起こす人が多いだろう。1978年ドラフト会議の前日、巨人が「江川卓投手と契約を結んだ」と発表した。前年クラウンライターの指名を拒否、球団買収で交渉権を引き継いだ西武の誘いにも応じなかった江川がどの球団に指名されるか、大きな関心を集めていた中、ルールの抜け穴を突く不可解な契約だった。いわゆる“空白の一日”を勝手に解釈した暴挙。

 日本中が騒然とした。江川は作新学院のエースとして甲子園を騒がせ、「怪物」と呼ばれた。強豪校の打者たちがかすりさえしない。バットに当たるだけで歓声が湧いたほどの球威。野球ファン以外の人でさえ驚嘆し、江川の名を覚えたほど特別な存在だった。高校時代、完全試合2度、無安打無得点9度。法政大学に入学し東京六大学で通算47勝。プロ野球でもケタ外れの快投が期待されていた。

 怪物・江川獲得に歓喜する巨人ファンもいたが、巨人ファンでさえ何割かは内心複雑だった。その出来事を機に巨人に疑問を抱き、心が離れたファンは少なくない。私もその一人だった。

 ドラフト会議は翌日、巨人欠席で開催され、4球団が江川を入札。クジを当てた阪神が指名権を獲得した。その瞬間から、世間を二分する大騒動が起こった。巨人と江川側は契約の正当性を、阪神は自身の権利を主張した。長く紛糾した末、1カ月後に金子鋭コミッショナーが「強い要望」を発表した。それは、「ドラフトの結果に基づいて阪神が江川と契約する。その後すぐ巨人にトレードする形での解決を望む」というものだった。阪神は強く反発したが、79年1月31日夕方、江川と入団契約を交わし、同日巨人へ移籍した。

プロ野球分裂危機

 巨人側が交換要員に選んだのは小林繁だった。

 小林にとっては青天のへきれき。相手が怪物・江川でも、プロでは1勝の実績もない。小林はすでに62勝。直前3年間は18勝、18勝、13勝。巨人のエースと呼ばれる存在だ。小林が巨人から打診を受けたのは、キャンプ地の宮崎に移動するため羽田空港に到着してからだ。ナインと合流する直前ハイヤーに乗せられ、都内ホテルで移籍を通告された。待ったなしの状況で熟慮の末、小林は巨人の要請を受け入れ、深夜0時過ぎに移籍記者会見を開いた。

 あの日、小林が唐突なトレード要請を拒否したなら、江川事件は終わらなかった。さらに、巨人はセ・リーグ脱退も辞さず、新リーグ結成も画策していた。プロ野球分裂の危機を小林が救ったといわれるゆえんだ。

 阪神移籍1年目、小林は22勝の大活躍をする。その後も2桁勝利を続け、通算139勝を数えた83年10月、球団の慰留を固辞し、引退を決めた。会見ではこう語った。

「江川君とのトレードで移籍した1年目の野球が最高だった。あれは神様がきっとボクに大きな試練を与えてくれたんだと思う。この苦しさを乗り切ったとき、ボクは初めて一人前の男になれる──そう思って投げました。あの年以来、気力がなくなったといわれても仕方ないと思います。あの1年でボクは燃え尽きたのかも……」

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