【鎌倉殿の13人】父子でも北条時政は義時と一触即発 背景に若妻「牧の方」との陰謀も

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将軍候補として名前の挙がらなかった公暁

 政子は将軍家を存続させるために動いた。1218年、京で後鳥羽上皇の乳母で後見人の藤原兼子と会談する(『愚管抄』)。話の中身は書かれていないが、後の同書によると、上皇の皇子を次期将軍に迎える交渉だった。上皇側は内諾した。

 公暁は出家していたものの、頼家の嫡子。実朝の猶子でもある。還俗(僧侶が職を離れること)も出来ないことはなかったはず。しかし実朝の後継候補として名前が挙がったことはない。蚊帳の外だった。

 公暁が大津から鎌倉に帰ってきたのは1217年5月。鶴岡八幡宮の別当・定暁が他界したため、次の別当になった。これも政子の指示である。この時、公暁はまだ18歳。やはり特別扱いなのだろう。

 だが、政子なりの思いは公暁に届いてなかった。降りしきる雪が2尺(約60センチ)も積もった1219年1月27日夜、鶴岡八幡宮に右大臣任官の拝賀に行った実朝は公暁に暗殺された。

「神拝が終わって(実朝が)退出したところ、鶴岡別当の公暁が忍び寄り、剣を取って丞相(最高位の官吏、実朝)を殺害し申した」(『吾妻鏡』)

 厳重な警備が敷かれていたが、鶴岡八幡宮を知り尽くした公暁だから隙を突くのは難しくなかったようだ。

 公暁は実朝を殺害後、乳母夫の三浦義村を頼る。自分が次期将軍になる意思を伝えた上で義村邸に向かった。だが、義村の手勢に殺害される。義時の指示を受けてのことだった。

破られた上皇と政子の間の内諾

 僅かな時間で頼朝の血を受け継ぐ若者が2人死んだ。実朝は28歳、公暁は20歳だった。実朝の言葉通り、源氏嫡流の将軍は途絶えた。

 政子はすぐに動く。約2週間後の同2月13日、使者を京に送り、後鳥羽上皇の皇子である冷泉宮(頼仁親王)か六条宮(雅成親王)を将軍にしてくれるよう願い出た(『吾妻鏡』)。

 だが、上皇は事前の内諾を反故にする。幕府が実朝を守れなかったことで状況は一変した。

 同7月、代わりに4代将軍として迎えられたのは摂政や関白を歴任した九条道家の3男・三寅だった。後の藤原頼経である。

 道家は頼朝の妹・坊門姫の孫なので、三寅は頼朝一族の遠戚だった。また、道家の祖父・九条兼実(田中直樹)は頼朝の盟友だった。

「九条道家の御子息が関東に下向した。これは故前右大将(頼朝)の後家の禅尼(政子)が将軍との古い関係を重んじ、その跡を継ぐため、要請した」(『吾妻鏡』)

 だが、三寅はまだ2歳だった。幕政は政子が取り仕切ることに。尼将軍時代の幕開けだった。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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