【鎌倉殿の13人】史書で読み解く「源頼家の時代」 相次ぐ内輪揉めで比企の乱 北条時政に好機到来

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比企の乱

 同9月2日、時政は能員に対して「薬師如来(病気を治す仏様)が完成したので供養をやりたい」と伝え、自邸に招く。追討しようとしている相手の家に行ってしまったのだから、能員には油断があった。能員は時政邸に着くなり殺害されてしまう。「比企氏の乱」である。

 同時に比企邸も攻められた。実行したのは義時、北条泰時(坂口健太郎)、畠山重忠(中川大志)、三浦義村たち。政子の命令だった。これにより頼家の跡を継ぐはずだった一幡も若狭局も死んだ。比企家は滅亡した(これは『吾妻鏡』の記録。『愚管抄』には一幡は同11月3日に義時の命令で殺されたとある)。

 比企の乱からの時政の動きは速かった。殺害から1夜明けた1203年9月3日までには京へ使者を出し、「千幡を頼家の後継者として認めて欲しい」と申し出た。この時、頼家は生きていたが、死んだことにしてしまったというから、時政もムチャだった。

 後鳥羽上皇(菊井りひと)は時政の求めに応じ、千幡の鎌倉殿の継承を許す。同時に3代目の征夷大将軍に任じた。また千幡に実朝という名前を与える。この時、実朝は12歳だった。

頼家の哀れな死

 頼家はどうなったのかというと、同9月5日になって急に病が回復する。いよいよ病気ではなかったように思える。ただし、もう鎌倉殿でも将軍でもない。同7日、頼家は伊豆国修善寺(静岡県伊豆市)に幽閉された。

 頼家は幽閉から1年近くが過ぎた1204年7月、入浴していたところを北条家が送り込んだ刺客に殺される。暴れたことを理由に首をヒモで縛られ、下半身を切り取られた。惨殺だった。

 一方、実朝の将軍襲名は時政にとっては好機到来だった。やっと自分が自由に動かせる政権が出来た。時政は幕府の政治を動かす政所の筆頭別当(政務執行者の中心人物)に就任する。つまりは初代執権である。

 時政は頼朝時代には舅(しゅうと)ということで引き立てられてはいたものの、役職には就かせてもらえなかった。その反動なのかも知れない。頼家時代以降はひたすら権力を求めて突き進む。頼朝亡き後のトラブルメーカーは時政にほかならない。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。1990年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、文化社会部記者と同専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。2010年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め、2019年に独立。

デイリー新潮編集部

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