【鎌倉殿の13人】史書で読み解く「源頼家の時代」 相次ぐ内輪揉めで比企の乱 北条時政に好機到来
阿野全成の謀殺
内輪揉めは終わらない。1203年5月、阿野全成(新納慎也)が謀反を企てたとして甲斐源氏の武田信光に捕らえられる。信光は武田信義(八嶋智人)の子だ。捕らえるよう命じたのは頼家。全成は言うまでもなく自分の叔父である。
頼家は全成の妻・阿波局(宮澤エマ)も捕えようとした。もっとも、政子から「彼女に疑うところはない」と一喝されたため、これは諦めた。全成が権力に関心を示していたという記録は見つかっていないから、おそらく頼家の言い掛かりだろう。
この事件のポイントは阿波局が頼家の弟・千幡(のちの源実朝、水戸部巧芽)の乳母で近しい関係だったこと。また時政は千幡の後見人だった。『玉葉』には時政が千幡に権力を握らせようと考えているとある。頼家はこのままでは自分の立場が危うくなると考え、先手を打ったのだろう。
全成は常陸国(現・茨城県の南西部を除いた地域)に流された後、同6月に下野国(現・栃木県)で八田知家によって討たれた。これで頼朝の男兄弟は9人全員が他界した。
20歳の頼家が危篤に
全成の死から1カ月後の1203年7月、鎌倉は蜂の巣をつついたよう騒ぎになる。頼家が急病となり、同8月には危篤状態になったからだ。
タイミングが良すぎる。頼家は幼いころは病弱で、この半年前にも体調不良の兆候があったが、20歳の若者が急に危篤になるものなのか。不自然であることから、全成謀殺に対する北条家側の報復として頼家に毒が盛られたという説がある。
頼家は死を覚悟。同8月27日には5歳の長男・一幡(佐野仁音)に鎌倉殿の座と日本国総守護職を継がせることを決めた。一幡の母は比企能員の娘で頼家の側室・若狭局(山谷花純)。『愚管抄』によると、この決定の直後に頼家は死に備えて出家した。
一幡が跡継ぎと決められた際、関東28カ国の地頭職(荘園や公領の支配者)と守護職(軍事行政の統轄者)が一幡に譲られ、関西38カ国の地頭職は千幡に譲り渡されるという財産分与が決まった。『吾妻鏡』にはそう記されている。
一幡という頼家の後継者がいながら、千幡との分割相続となった訳である。妙な話だ。この決定をしたのは時政だというのが通説である。
面白くないのが一幡の外祖父・能員。『吾妻鏡』によると、若狭局を通じ、頼家に対し「時政を討ちたい」と伝えた。これを聞いた頼家は能員を御所に呼び、病床で自分の外祖父である時政の追討を命じた。骨肉の争いである。
この密議を障子越しに聞いていた人物がいた。政子だ。スパイ小説さながらである。頼家は我が子だが、景盛討伐未遂事件や全成謀殺事件などによって関係は冷えていた。政子は密議をそっくり時政に知らせた。
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