中日・根尾昂は続けるか? 野手から投手に“挑戦”した選手たち、「拒否すれば現役は終わり」と言われた人も

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「投手経験なし」からの転向

 嘉勢の翌年に同じドラフト1位でオリックスに入団した内野手の今村文昭も、打者として芽が出ず、5年目の00年秋季キャンプから投手に転向している。翌年は、オープン戦で7イニング連続無失点と好投し、公式戦デビューをはたした3月25日の開幕2戦目、ダイエー戦でも、井口資仁、小久保裕紀、松中信彦の中軸を3者凡退に切って取った。

 さらに、同28日の西武戦では、6対6の延長10回無死一、二塁のピンチでリリーフし、3点を失ったが、その裏、味方が4得点で逆転サヨナラ勝ちしたことから、プロ初勝利が転がり込んできた。今村は翌02年にも2勝を挙げるなど、実働3年で3勝4敗2セーブを記録している。

 高校時代にも投手を務めた嘉勢、今村に対して、「投手経験なし」で転向したのが、同じオリックスの萩原淳である。大型遊撃手と期待され、ドラフト2位で入団も、同期のイチローらに抜かれ、9年間で6打数1安打と鳴かず飛ばず。

 だが、00年シーズン中、練習で150キロの速球を投げたのが仰木監督の目に留まり、「拒否すれば現役は終わり」と通告されたことから、生き残りをかけて投手に挑戦した。

新庄監督にも登板歴

 そして、02年7月21日のダイエー戦、1点リードの5回2死一、三塁のピンチでリリーフした萩原は、内野安打を許して同点に追いつかれたものの、8回まで3回1/3を1失点に抑え、初勝利を挙げた。

 同年は48試合に登板し、3勝4敗10セーブ。05年には中1日で2試合に先発するなど、オープナーの先駆者的役割も演じている。07年に日本ハム、08年にヤクルトに移籍し、実働9年で13勝15敗15セーブ20ホールドを記録。野手からの転向組では、近年では最も成功した投手と言えるだろう。

 日本ハム・新庄剛志監督も、本職は外野手ながら、阪神時代の99年にオープン戦2試合に登板している。“仕掛け人”の野村監督は、前出のとおり、イチローの登板を批判していたが、実は南海監督時代に外野手登録の広瀬叔功とウィリー・スミスを公式戦で登板させており、けっして否定論者ではなかった。

 新庄についても「1年目は敗戦処理、2年目にストッパー、3年目に先発完投を目指す」と3年計画での育成に意欲を見せていた。同年3月5日の巨人戦で4回のリリーフした新庄は、最速143キロをマークし、見事3者凡退。同21日のダイエー戦では1本塁打を浴びたものの、後続3人を打ち取り、初奪三振も記録した。

 だが、登板で筋肉に余計な負担をかけたことから、翌22日に左大腿四頭筋に肉離れを発症し、「二刀流」はあえなく廃業となった。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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