映画監督・松居大悟がもう一度会いたいと願うスターとは? 4年間毎年墓参りに

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墓参りにいくのは「自分のため」

「くれなずめ」など多数の作品を手がけ、「劇団ゴジゲン」の主宰も務める、映画監督の松居大悟さん。彼が今、もう一度会いたいと願うのは、4年前に生涯を閉じたあのスターだという。ラブレターのように、作品に込めるその思いとは。

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 烏滸(おこ)がましいことを書くのはわかっている。

 会えていた時はそんなことを実感せずに日々に追われていて、会えなくなってからの方がその人のことを考えてばかりいる。“当たり前”は失ってから、通り過ぎた季節みたいに後で気付く。後悔っていう言葉だと据わりが悪くて、決して後ろを向いているのではない。あえて言うと、訪れた季節を感じるみたいに前を向きながら悔いている。後悔じゃなくて前悔っていう言葉がないのはなんでなんだろう。

 2月21日は大杉漣さんの命日で、今年も眠っている場所に会いに行ってきた。最初の頃は、ご一緒した「バイプレイヤーズ」現場スタッフたちと行っていたけど、次第に周りのスケジュールをうかがうのにも気を使ってしまい、一人で行くようになった。漣さんはいつだって僕らのスターだ。もう4年になるけど、まだ4年しか経っていなくて、その日も沢山の花やお菓子が、さっきまでここで宴会していたかのように新鮮な状態で置かれていた。こうして花を手向けるのも、僕がこうして手を合わせるのも、ほとんどは自分のためだろう。自分が忘れないため。自分の中で生き続けているため。そんな自分にうっとりするため。じゃないと小説新潮のコラムにこの気持ちを書く必要なんてないのだ。

相手の気持ちを度外視して、勝手に作品を作る

 父とも随分前に会えなくなって、一緒に演劇をやっていた仲間とも会えなくなった。36年生きていると、寂しい別れも募っていくけれど、寂しいってことは、それまで寂しくなかったってことだから。当たり前の暖かさに昔より敏感になった。

 また、これから会える人もいる。

 そうやって人生は連なっていく。

 そして僕は映画監督だから、そんな後悔も作品にして、作品にする過程でずっと思うことができる。これまでも会えなくなった人を思って、小説や演劇や映画を描いてきた。随分勝手なやり口だ。「もう一度会いたい」気持ちを大義名分にして、相手の気持ちを度外視して、勝手に作品を作る。なんなら、「あの人もこれを望んでるはずだ」なんて、反論できないことをいいことに、鼻の穴を広げながら美談にすらしてしまう。

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