戦後日本で優遇されて勢力を拡大した「在日本朝鮮人連盟」 預金封鎖をされない特例措置

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個別的に親日派を脅迫

「総務部報告」にはこんな記載もある。

「朝鮮奨学会=十二月三日実質的に接収、理事改選し、学生同盟維持財団的性格で再出発。東京都興生会財産だった朝聯倶楽部建物及び現金二十五万円接収」

 興生会は日朝融和団体だが、「朝鮮奨学会」は、北朝鮮で財をなした日窒コンツェルンの野口遵が作った朝鮮人留学生のための奨学金団体である。

「同〔昭和〕十六年一月、野口遵の奨学寄附金一千万円(株券時価)を基礎として、新たに『朝鮮奨学会維持財団』が学務局に組織され、その実行機関として『朝鮮奨学会』が開設された。それで、これを中央協和会に所属させ、奨学道場などをつくって留学生の指導にあたらせ、さらに同十八年十月には財団法人に拡充された」(坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』法務研究報告書)

 そのビルは、当初、朝連が活動拠点としていた。その資金も朝連の財源となった。『朝総連研究』には次のように書かれている。

「金斗鎔一派はその後、親日派粛清を朝連の正式運動として採択し、個別的に親日派を脅迫し、金品の献納として解決を図る方法を取った。朝鮮奨学会の財政も金額は少額で問題にはならなかったが、やはり一心会の財政のように朝連から奪取した」

預金封鎖と新円切替

 当然ながらこうしたお金は銀行に預けられている。だが戦後間もない日本では、預金封鎖が行われた。

 総力戦で敗北を喫した日本は、凄絶な戦後経済と向き合うことになった。帝国政府は膨大な戦費を捻出するために、国債を大量に発行した。戦争が終わると、国民への債務残高は国民総生産の2倍に膨らみ、政府はその膨大な借金を返済しなければならなくなったのである。そこで政府は国民に大きな負担を課す。それはまさしく「堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶ」財政再建政策であった。

 このため政府は1945年11月5日、「財政再建計画大綱要目」を閣議了解し、当初4千億円しかなかった国富に対して、1千億円弱の課税を想定し、10万円以上の資産に最大90%の財産税を課す特別課税を柱とする財政再建計画を公表した。翌1946年2月16日、経済の混乱を抑えるための緊急措置として、「経済危機緊急対策」を発表、同時に「金融緊急措置令」を発令する。

 ここで行われたのが、「預金封鎖」と「新円切替」だ。政府はすべての金融機関の預貯金を封鎖し、国民の引き出しを大幅に制限した。一定額を第1封鎖預金、それ以上を第2封鎖預金と分け、第1預金からのみ、世帯主は毎月300円、世帯員は100円までしか引き出せなくなった。そして同時に新円を発行、1円以上の旧円札は46年3月2日までしか使えないとした。

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