斉藤立 全日本柔道選手権初優勝で思い出す、“偉大な父親”と山下泰裕の忘れがたき一戦

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父と山下泰裕の試合

 斉藤は試合後の会見(現場取材でもリモート会見だった)で、「小学校の頃、父と山下先生が戦った試合のビデオを父と一緒に見て、『あれ絶対に一本だよ』なんて言ってました」と話した。

 これは1985年(昭和60年)の全日本選手権で、山下氏が前代未聞の9連覇を達成した試合のことだ。決勝は「山下vs斉藤」となったが試合中、山下がドスンと背中から落ちた。完全に「一本」と思われたが、当時の神永昭夫主審(故人・1964年の東京五輪無差別級決勝でオランダのアントン・ヘーシンクと名勝負を演じた)は斉藤のポイントを取らなかった。

 斉藤はその後、山下の猛反撃に守勢に回ってしまい結局、判定で山下が勝った。神永氏は「山下が自ら技をかけてスリップしたと判断した」と語っている。筆者は今回、斉藤に「私もあれは一本だと思って見ていましたが、お父さんは『絶対俺が勝っている』と強く訴えていましたか?」と訊いた。斉藤は「その時は、ちょっと冗談ぽく言ってましたけど」などと話した。父の斉藤仁は全日本選手権での3度の決戦でもついに山下に勝てず、初優勝したのは山下が引退した後だった。

 古い話で何のことかわからない若い記者も多かったためか、筆者と斉藤とのやり取りでは全柔連の広報担当氏がその試合を説明してくれていた。

名勝負、陰の立役者

 さて、今回の決勝は柔道史に残る名勝負と言っていい。この名勝負には、とある立役者がいる。GS(延長戦)に入って9分44秒、斉藤の圧力に次第に疲労してきた影浦がもたれこむように自ら膝をついてしまう場面があった。主審から「待て」のコール。嫌な予感がした。

 影浦は既に「指導」を2つ受けており3回目の「指導」を受けて斉藤の勝ちかと思われた。この大会、一本勝ちが多くて盛り上がっていたので、最後の決勝が相手の「指導」による反則勝ちで決まってしまうとちょっと残念だなと思った。ところが眞喜志慶治主審はそこをぐっと我慢(?)し、試合を継続させる。会場からも「おーっ」安堵の声が聞こえた。斉藤の「足車」が炸裂したのはその直後だった。眞喜志主審は、場外に押し出されそうになった影浦が前に押し返していたことを評価し、消極的姿勢に与えられる「指導」にしなかったようだ。

 その昔、眞喜志主審が高校生時代に1991年の静岡県でのインターハイ(全国高校選手権)で準優勝した時、筆者は取材していた。懐かしい男が大会を盛り上げてくれた。(敬称略)

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に『サハリンに残されて』(三一書房)、『警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件』(ワック)、『検察に、殺される』(ベスト新書)、『ルポ 原発難民』(潮出版社)、『アスベスト禍』(集英社新書)など。

デイリー新潮編集部

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