「マイナス7度で8時間列車待ち」 妹を頼って日本に避難したウクライナ人の証言

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 五木寛之氏は終戦後までの幼少期を朝鮮半島で過ごした。その著書『運命の足音』の中で、ソ連兵に追われた“日本人難民”の様子についてこう記している。〈歩けない子どもを、ずだ袋のようにほこりを立てて引きずっていく母親もいた〉。先の大戦から77年。ウクライナ避難民もまた、過酷な道を歩み始めている。

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 ナターシャ・コーヴェルヂュクさん(40)は、夫と13歳になる娘と一緒にウクライナ中南部の都市、クリヴィーイ・リーフから日本に暮らす妹を頼って逃れてきた。日本語の不得手なナターシャさんに代わって、妹が言う。

「姉が住んでいた街も、ミサイルで攻撃されていました。夜中に空襲が始まると、防空壕に駆け込み、爆発音が鳴り止むまで地下で膝を抱えていたそうです」

 一家は3日間かけて日本にやって来たのだが、その道中も安泰ではなかった。

「姉と姪はまず、電車でリヴィウを経由してポーランドのワルシャワまで向かいました。でも、その列車が順番待ちでぜんぜん乗れなかったみたい。雪が降るマイナス7度の世界で8時間も待って、やっと乗れたと話しています」(同)

「お前のことをずっと見張っている」

 ある理由から、彼女たちは最低限の荷物のみ携えてきたという。

「姉たちは政府や鉄道会社から事前に、避難する際は極力荷物を少なくするように通達されていました。なので、姉を含めて避難民たちはみな大体、リュックサック1個背負っているだけ。姉も、ウクライナから持ってこられたのは本当に大事な書類と下着のみです」

 そう妹は語るが、苦労はそれだけではなかった。

「普段なら50人しか乗り込めない車両に、100人くらいがぎゅうぎゅう詰め。小さい子供たちは泣きわめくし、その状況に姉も辛くなっちゃって、思わず涙が出た、と」(同)

 こうして散々な目に遭いつつも、彼女は夫との合流先であるワルシャワまでたどり着いたのである。一方、その夫もまた単身赴任先のモスクワで、戦争が始まって以来、恐ろしい経験をしていた。曰く、突然、警察から電話があり、

〈ウクライナ人だろ。お前のことをずっと見張っているからな。変なことをしたり、何か問題のある発言でもすれば、すぐ刑務所に入ることになるぞ〉

 と、告げられたというのだ。15年間、モスクワで暮らしてきた彼も、この通告には心底怖くなった。仕事を手放すことになるが、背に腹は代えられない。妻子と共に彼は日本に渡る決意をし、1日がかりでベラルーシ経由でポーランドに入ったのである。

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