【鎌倉殿の13人】べらんめえ調でアウトロー臭も…異彩を放つ佐藤浩市で思い出す名優

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 好調が続くNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は群像劇だ。脚本を書いている三谷幸喜氏(60)が繰り返しそう説明している。なので、登場人物の一人ひとりに光が当てられているが、佐藤浩市(61)が演じる上総広常の存在感は際立っている。性格俳優という言葉が似合った父親の故・三國連太郎さんとますます似てきた。

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 性格俳優とは、個性的な人物を巧みに表現できる人。助演俳優に限らない。

 佐藤浩市が演じる上総広常は個性的そのもの。上総国の有力な在庁官人(地方官僚)で、板東で随一の大軍を率いながら、口調はべらんめえ。アウトロー臭も放っている。

 傲岸不遜でもある。初登場の第7話では頼朝(大泉洋)軍への加勢を頼みに来た和田義盛(橫田栄司)を歯牙にもかけなかった。

「気にいらねぇな。なんで、ここに頼朝が来ねえんだよ。ザコどもじゃ話が出来ねえ」(広常)

 険悪なムードになりそうだったため、主人公・北条義時(小栗旬)が割って入ったが、「2匹目のザコか」(広常)と、にべもなかった。

 もっとも、史実的にも広常の高姿勢には理由があった。広常は桓武天皇(50代)の流れを汲む桓武平氏の1人。家柄が名門という点では清和天皇(第56代)の子孫で清和源氏の頼朝に負けていなかったのである。

 また、頼朝が流罪人の立場だったのに対し、広常は在庁官人の実力者。約2万の大武士団も擁していた。おまけに頼朝の父親・義朝に力を貸してやった過去もあった。

 崇徳上皇と後白河天皇(西田敏行)が武士を使って争った「保元の乱」(1156年)の際、義朝は平清盛(松平健)と供に天皇側で戦い、勝った。広常は義朝軍に加わっていた。義朝と清盛が戦い、清盛が勝利した「平治の乱」(1159年)でも広常は義朝軍にいた。

 義朝敗戦後の広常は清盛に服従する。だが、1179年に清盛の家人・伊藤忠清が上総介(上総国の次官)に任命されると、忠清と対立してしまった。これを快く思わなかった清盛は広常を勘当。史実の広常も優等生ではなく、やんちゃだった。

 頼朝が挙兵し、源平合戦の幕が開いたのは翌1180年。広常は清盛に勘当されたままだった。広常にとって微妙な時期に頼朝は平家方と戦い始めたのである。

 ドラマでの広常は頼朝軍への参加を求めた義盛と義時に対し、「頼朝に付いたら、どんな得があるか、教えてくれよ」とストレートに尋ねた。やはり援軍を頼みに来た平家方・大庭景親(國村隼)軍の梶原景時(中村獅童)にも同じく問うた。この下りは三谷氏の推論だろうが、どちらに付くかで迷ったのは実際の広常像に近いはずだ。

 広常はもともと平家側の人間であるものの、清盛との関係は冷えていたから、平家方に付く義理はなかった。一方、義朝軍の一員だった過去があったが、その息子の頼朝とは付き合いがなく、こちらを助けてやる必要もない。

 頼朝を討ち取れば清盛との関係が修復できるかも知れない。半面、そもそも清盛を倒してしまえば、冷えた関係など気にせずに済む。どちらに味方するかは悩むだろう。

 ドラマでは最終的に広常が頼朝の器量を認め、その軍に加わった。頼朝が自分を待たせた広常を「遅い!」「帰れ!」などと怒鳴りつけるというハッタリが効いた。史実でも広常は頼朝を大人物と認めた上で軍に加わることにしたという。頼朝の毅然とした態度が決め手になったとされている。

 ドラマの第8話の酒席で広常は「オレは佐殿なんて呼ばねぇからな!」と息巻き、頼朝を呼び捨てにしようとした。頼朝がどうして板東武者から佐殿と呼ばれていたかというと、「平治の乱」の際、右兵衛権佐という官位に就いたからである。

 総大将が呼び捨てにされるのはマズイと考えた三浦義村(山本耕史)が一計を案じ、広常が「武衞」という呼び方もあると吹き込んだ。

「唐の国では親しい人を呼ぶ時にそういうらしいです」(義村)

 大ウソだ。武衞とは天皇を近くで守護する武官。佐殿より、ずっと偉い。広常が頼朝を武衞と呼ぶことで、その場は収まったが、広常は頼朝を敬おうとはしなかった。

 史実でも広常は頼朝に対して強気だった。「下馬の礼」も拒否した。当時は位が上の人間に対しては馬から下りて挨拶しなくてはならなかったが、これを拒んだのである。

 前回第9話の「富士川の戦い」で、頼朝軍、武田信義(八嶋智人)軍が戦わずして平家の追討軍を破ると、頼朝はそのまま京に向かうと言い出した。

 だが、三浦義澄(佐藤B作)や土肥実平(阿南健治)ら板東武者たちはその気なし。兵糧が尽きてしまったし、大切な所領に戻りたかったからだ。

 広常もまた所領に帰りたがった。以前から折り合いの悪い常陸国の佐竹義政(平田広明)の動きが不穏だったからだ。

 史実でも広常は頼朝に対し、まず板東の平定に力を注ぐべきだと苦言を呈した。間違った主張とは思えないが、冷酷な性格の頼朝がどう受け止めたか。広常の今後が心配になる――。

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