亡くなった石原慎太郎氏の意外な中国観 野中広務氏の仲介で中国大使と会食した日

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 石原慎太郎・元東京都知事が2月1日、89歳で亡くなった。この日の干潮は午前11時16分、石原の逝去はそれから間もなくだったと言う。晩年は暴走老人と呼ばれてあちこちで軋轢を生んだが、最期はヨットを愛した海の男らしく、引き潮とともに逝った。【武田一顕/ジャーナリスト】

 1995年4月に国会議員を辞して、99年に都知事となった翌年の秋だったと思う。石原は当時の森総理を官邸に訪ねた。その頃の私は北京特派員を終えてTBSラジオの国会担当記者となり、飛ぶ鳥をおとす勢いの石原を追っていた。理想の総理の上位に入るなど、石原への期待は都民だけに止まらないものとなっていた。この日も私は、総理の執務室から出てくる石原を取材しようと扉の前で待機していたのだが、森との面会を終えて出てきたその人は私の顔を見るなり、「おっ、出たな支那のスパイ!」と宣った。場所は日本国の中枢たる総理官邸。居並ぶSPの鋭い視線が一斉に注がれるのを感じて私は非常に焦ったが、当の本人はいたずらっ子のような笑顔を浮かべている。こういう人なのだ。相手の名前は覚えずとも、相手の人生はよく覚えている。厳しさと人懐っこさが同居する、なんとも人たらしな男が石原慎太郎だった。

 自民党内閣の不人気もあって、石原フィーバーは加熱した。石原がTBSラジオに出演すると、普段とは比較にならない聴取率を叩き出した。特に森本毅郎キャスターとの対談では二人の悪戯心(あそびごころ)が調和したのか、石原は終始機嫌よく、いつも以上に饒舌に語った。その裏には、嫌っているTBSテレビへの当て付けがあったことも石原らしい。

 2012年10月25日。石原は午後3時から記者会見を予定していた。民主党政権はすでに息も絶え絶えで、石原が都知事のまま新党結成に踏み切ることを宣言する会見だと各メディアが考えていた。しかし、現実には「都知事辞任、次期衆院選出馬、新党結成、後継に猪瀬氏指名」。私は会見前にこの情報を掴み、どこよりも早く報道した。後継指名についてだけは、会見で明言しない可能性も考慮して報道しなかったのだが、当時ラジオニュース内ではこれらのネタの重大さに、誤報だったらどうするのか、本当に打つべきなのかと緊張が走ったと聞く。当時の部長は「あの時は胃が痛くなった」と述懐している。なお、この都知事辞任会見でも、質問するため挙手した私を石原は「そこの支那びいき」と言いながら指名した。(東京都庁石原知事緊急記者会見録より)

 会見は全国に生中継されており、私は再び冷や汗をかいた。

中国大使と「イタリアン」

 政治家として石原が遺したものは功罪相半ばだが、石原自身が嫌いだとする中国が絡むエピソードは多い。その一つが昨年行われた東京オリンピック・パラリンピックだ。元はと言えば、石原がドン・キホーテよろしく一人で招致したようなものだった。石原が都知事就任後も、中国を「支那」と呼称していたのは有名だが、東京でのオリンピック開催を意識し始めたころから改め中国と呼び始めた。招致を実現させるためには、2008年に北京オリンピックを開催する中国の支持が不可欠だと考え、政治家として現実的な判断を下したのだ。2008年6月12日、石原は都内の料理店で中国大使の崔天凱と会食した。アレンジしたのは、中国と太いパイプを持つ野中広務・元官房長官。石原と野中と中国大使…育った環境も政治姿勢もまったく違う3人が共に食べたのは、意外なことにイタリアンだった。場所は代官山のリストランテASO。「大使館に出向いて中華は食わない」と宣言した石原に対して、野中が「それなら向こうだって日本料理は嫌だろう」と応じて、高級イタリアンとなったと言う。石原は会食の席で崔に向かって「アメリカの国債なんて膨大に持っていてバカだねえ…お互いに」などと機嫌よく話していた。この席で、石原の都知事としての北京五輪開幕式出席が決まったのだ。

 一方で、実は石原は中華料理が好きだった。ある日のこと、中華料理店から石原が出てきた際、私が「敵性国家の食べ物を食べていいんですか?」とシャレで聞いたところ、「オレは中国が嫌いなんじゃなくて、中共(中国共産党)が嫌いなんだ」と真顔で答えている。

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