南こうせつが明かす喜多條忠さん秘話 亡くなる2週間前に「二人でもう一曲作ろう」と談笑

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 かぐや姫の「神田川」や「妹」などの作詞を手掛けた喜多條忠(まこと)氏が肺がんのため亡くなったのは、2021年11月22日のことだった。享年74。その約2週間前に氏と「最後の別れ」をしたという南こうせつ(72)が、名曲誕生の裏側を明かす。

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 喜多條さんに最後にお会いしたのは亡くなる2週間くらい前でした。病院から自宅に戻られていると伺っていたので喜多條さんのお宅を訪ねて行くと、奥さんとお子さん二人が出迎えてくれました。喜多條さんご本人はベッドに寝たきりではあったものの、思ったより元気そうで、青春時代から今までの思い出話を手を握り合いながら1時間ほど話しましたね。私が枕元で「二人でもう一曲作ろうよ」と言うと喜多條さんも「そうだね」と言ってくれました。僕が「『神田川』の次は『三途の川』じゃないからね」と冗談を言うと、喜多條さんも「分かってる、分かってる」なんて言って笑い合ってね。その時は年内は大丈夫だろうと思っていたので奥さんからの留守番電話で訃報を聞いた時は本当に驚きました。

 喜多條さんに初めて会ったのは文化放送のスタッフルームでした。当時喜多條さんは文化放送で台本作家をやっていたのです。一方の僕はアマチュア半分、プロ半分といった状態でした。僕が「喜多條さんは詞は書かないんですか?」と聞くと、不愉快そうな顔で「書かない」と。「でも自由詩は書く」と言うので、「僕はどんな詞でもメロディ付けられますよ」と大ボラを吹くと、今度は嬉しそうな顔で「そうか」と。その後喫茶店に行って意気投合し、1週間後に喜多條さんから詞が送られてきてできたのが「マキシーのために」でした。

「書き加えちゃったよ」

 大学生時代、喜多條さんは時折学生運動のデモに参加していました。「マキシーのために」はそうした背景から生まれましたが、「神田川」も同様です。

 喜多條さんが家に帰ると、大好きな女の子がカレーライスを作って待ってくれていて、先ほどまでの催涙ガスの煙る殺伐とした雰囲気はどこへ行ったのかという具合なわけです。この幸せにひとたび溺れてしまえば自分が本当にしたいことや志が見えなくなってしまう。それが「若かったあの頃/何も怖くなかった/ただ貴方のやさしさが 怖かった」というフレーズに込められた想いなのです。

 喜多條さんから「神田川」の詞をいただいた日のことは忘れることができません。事前にお伝えしていた締め切りの日の夕方、ようやく喜多條さんから「できた」と電話がかかってきました。FAXも録音機もないので、喜多條さんに電話口で詞を読んでもらって、それを僕が紙に書き写しました。「貴方はもう 忘れたかしら」――最初は「変な歌だなあ」と思っていたのですが、書き写すうちにメロディが勝手についてくるのです。2番に進んで、「二十四色の クレパス買って」と続いていき、最後の「若かったあの頃……」と書いている時は何となくメロディを口ずさみながら書いていました。詞に引き込まれた「トランス状態」とでも言うんですかね。

 あと、これは初めて明かす話ですが、喜多條さんが作詞、僕が作曲した「妹」という曲があります。喜多條さんから送られてきたその詞の最後は「どんなことがあっても我慢しなさい/どうしてもだめだったら帰っておいで/妹よ」となっていました。お気づきかもしれませんが、世に出ている『妹』では「どんなことがあっても我慢しなさい/そしてどうしてもどうしても/どうしてもだめだったら帰っておいで/妹よ」となっています。最初に送られてきた詞では文字数が足らなかった。急いで喜多條さんに連絡してもつかまらない。それで僕が勝手に付け足して世に出しちゃったわけです。それについて僕も喜多條さんもずっと触れずにきたのですが、喜多條さんが亡くなる2週間前にお会いした時、手を握りながら「『妹』の最後、字数足らなかったから勝手に書き加えちゃったよ」と伝えると喜多條さんは「言ってくれればよかったのに」と。「妹」が世に出て40年以上経ちますが、いまわの際(きわ)にようやく“了承”してもらえました。

週刊新潮 2021年12月30日・2022年1月6日号掲載

ワイド特集「『人間研究』寅の巻」より