レギュラークラスは西武「金子侑司」だけ…スイッチヒッターはなぜ減ってしまったのか【柴田勲のセブンアイズ】

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「バットをたくさん振ること」

 スイッチへ挑戦する選手はプロ入り後が多いものの、現在のところ、成功している選手は少ない。

 高橋慶彦は広島に1974年に入団したが間もなく投手から打者に転向した。当時の古葉竹識監督からスイッチヒッターになることを勧められたという。私と高橋は元投手で足が速かったという共通点がある。松永浩美、松井稼頭央に も言える。

 広島に遠征した時だ。当時の打撃コーチ、山本一義さんから、「高橋をスイッチにしようといろいろやっているが…」と相談され、「バットをたくさん振ることだと思います」と答えた記憶がある。

 転向した当時はいろいろなことをやった。いまのように情報が簡単に手に入る時代ではない。日常生活で左手を積極的に使うことを試みた。歯を磨く、食事をする。一切右手を使わない。左手ではしを持って別の茶碗に移す。だが、それらは左手を器用にするだけで打撃向上とは無縁だった。

 上達の道はひたすら振る、打ち込むことしかなかった。2倍以上の練習をする。限られた打撃練習時間を有効に使う。10分あれば7分を左、3分を右とし、後はグラウンド外の練習だ。高橋も相当の練習を積んだと思う。

物事を柔軟に合理的に判断

 スイッチ転向の成功例が少なくなったのはいまの風潮もあると推察する。「思い込んだら命がけ」、「倒れるまで練習をする」、「石にかじりついてでも」という時代ではない。

 しっくりいかない、打球が飛ばないなど合わないと判断したらすかさず軌道修正する。右なら右一本に絞る。二兎は追わない。物事を柔軟にそして合理的に判断する。その時代による考え方があるからね。

 だが、例えば石川遼や松山英樹が活躍すると、子供にゴルフをやらせたいという親御さんたちが増えるように、スイッチヒッターとしてバリバリの選手が出現すると風向きも変わるのではないか。私で言えば現役時代をよく知るファンは60代以上だろう。高橋らにしても知っているファンは年々少なくなっている。

 直近で言えば松井稼頭央のような選手が出現すれば大いに注目を集めると思うのだ。

 数多くいたスイッチヒッターでファンの皆さんの記憶に残っているのはだれだろう。2022年のお正月、年々少なくなるスイッチヒッターに思いを巡らせた。

※1 今季は101試合に出場し打率.192、0本塁打、9打点、盗塁9、通算安打数654。

※2 5月11日、後楽園球場での対国鉄(現ヤクルト)3回戦に初めて1番で先発出場。同月25日、広島球場での対広島6回戦に出場すると四回表に走者を二塁に置き、長谷川良平投手から左打席でプロ初本塁打を放つ。翌26日も本塁打をマーク。 球宴にもON(王貞治、長嶋茂雄)に次ぐ3番目の得票数で選出される。その球宴では優秀選手賞・打撃賞を獲得(後楽園)、後半戦もトップバッターとして活躍。126試合に出場、打率.258、7本塁打、打点27、盗塁43の成績だった。

柴田勲(しばた・いさお)
1944年2月8日生まれ。神奈川県・横浜市出身。法政二高時代はエースで5番。60年夏、61年センバツで甲子園連覇を達成し、62年に巨人に投手で入団。外野手転向後は甘いマスクと赤い手袋をトレードマークに俊足堅守の日本人初スイッチヒッターとして巨人のV9を支えた。主に1番を任され、盗塁王6回、通算579盗塁はNPB歴代3位でセ・リーグ記録。80年の巨人在籍中に2000本安打を達成した。入団当初の背番号は「12」だったが、70年から「7」に変更、王貞治の「1」、長嶋茂雄の「3」とともに野球ファン憧れの番号となった。現在、日本プロ野球名球会副理事長を務める。

デイリー新潮編集部

2022年1月3日掲載

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