キヤノン創業者「御手洗毅」は産婦人科医 打倒「ライカ」で見せた「メイド・イン・ジャパン」の意地

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「自分で産んだ子は自分で育てる」

「カメラは良くても日本製では売れない」と言われて落胆する御手洗に、社長のパーシーは言葉を継いだ。

「いかがでしょう。キヤノンブランドにこだわらず、当社のブランドであれば問題はクリアできる。その条件なら総代理店契約を検討してもよいのだが」

 オキュパイドとは、占領下という意味だ。パーシーの言葉に御手洗は激怒した。

「痩せても枯れても一国一城の主、城を売り渡すことはできない。何を馬鹿なことを言う。日本に精密工業を興すためにキヤノンを作ったのだ。自分で産んだ子は自分で育てる」

 よほど悔しかったのだろう。帰国後、『文藝春秋』で御木本真珠店(現・ミキモト)の社長らと「メイド・イン・ジャパンの悲哀」について鼎談。「日本製の不信頼は一朝一夕ではなくならない」と嘆いた。「安かろう、悪かろう」が日本製品の代名詞であった時代だった。

敵は軍門に下ったぞ!!

 屈辱を晴らす日は意外と早く訪れた。10年後の1960(昭和35)年、日本のカメラ生産額は米独と肩を並べた。あのベル&ハウエル社のほうから「キヤノン製品を我が社に売らせてほしい」と要請してきた。

「あの悲哀から10年。長かったとも、よくぞ10年で、(ここまで来た)とも思う。敵は軍門に下ったぞ」。御手洗の心境は、いかばかりだったろう。

 1963(昭和38)年、「夢のカメラ」と呼ばれた自動焦点(オートフォーカス、AF)カメラを世界で初めて発表する。ベトナム戦争の時には、従軍カメラマンの多くが日本製カメラを使った。家電や自動車に先がけ、御手洗のカメラが日本製品として初めて世界を制覇したのである。キヤノンの草創期の輝かしい成果であった。キヤノンを世界に飛翔させたドクター・御手洗毅は、プロ経営者となった。

 キヤノンの中興の祖は3代目社長の賀来龍三郎(社長在任期間は1977~1989年)である。事業の多角化に成功し、キャノンを国際的な優良企業に押し上げた。

 その賀来は創業家に大政奉還し、1993年に毅の長男の肇が第5代目社長に就いた。しかし、肇は1995年に56歳の若さで急逝する。

 その後任に指名されたのが、毅の甥の御手洗冨士夫である。

(後編に続く)

註:この記事は有森隆氏が上梓した、以下6冊の書籍の内容を踏まえて執筆された。
▽『経営者を格付けする』(2005年8月・草思社)
▽『仕事で一番大切にしたい31の言葉』(2011年6月・大和書房)
▽『創業家物語』(2008年7月・講談社)
▽『創業家物語――世襲企業は不況に強い』(2009年8月・講談社+&文庫)
▽『創業家一族』(2020年2月・エムディエヌコーポレーション発行、インプレス発売)
▽『プロ経営者の時代』(2015年8月・千倉書房)

有森隆(ありもり・たかし)
経済ジャーナリスト。早稲田大学文学部卒。30年間、全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書に『日銀エリートの「挫折と転落」――木村剛「天、我に味方せず」』(講談社)、『海外大型M&A 大失敗の内幕』、『社長解任 権力抗争の内幕』、『社長引責 破綻からV字回復の内幕』、『住友銀行暗黒史』(以上、さくら舎)、『実録アングラマネー』、『創業家物語』、『企業舎弟闇の抗争』(講談社+α文庫)、『異端社長の流儀』(だいわ文庫)、『プロ経営者の時代』(千倉書房)などがある。

デイリー新潮編集部

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