キヤノン創業者「御手洗毅」は産婦人科医 打倒「ライカ」で見せた「メイド・イン・ジャパン」の意地

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X線カメラの成功

 高級カメラがそこそこ売れるようになったため、御手洗毅が実家や友人・知人を回って出資を仰ぎ、1938(昭和13)年に目黒に工場を建て精機光学工業株式会社を設立した。社長を置かず内田が代表取締役専務となった。御手洗も役員に就くよう請われたが、常勤でなくても勤まる監査役になった。御手洗は資金こそ出したが、本業はあくまで医者。経営に直接関与するつもりはなかった。

 御手洗は、当初は経営を支える個人投資家の役回りだった。現代流にいえばエンジェルである。

 御手洗の回顧によれば、「ちょっとしたはずみ、というしか、言いようがない」。

「ぜいたくは敵」。戦時色が強まり、もはや高級カメラが売れる時代ではなかった。日本光学の下請けとして軍需製品を作っていた。

 新しい社長になった御手洗が着目したのがX線カメラである。当時、結核は死に至る病として恐れられており、軍部でも感染に神経をとがらせていた。

 御手洗は海軍軍務局に働きかけて受注に成功した。1941(昭和16)年に「35ミリX線間接撮影カメラ」を納入。陸軍からも受注し、年に100台を生産するまでになった。

生産の再開

 1945(昭和20)年8月15日、敗戦を迎えた。

 御手洗は気持ちの切り替えが早かった。空襲で焼失した御手洗産婦人科の再建を断念し、経営に専念することを決断した。目黒工場が無傷だったことが幸いした。御手洗は9月10日、カメラの生産を再開した。

 戦後、内田がキヤノンに復帰することはなかった。日産コンツェルンの鮎川義介の薫陶を受けた内田は、活躍の場を他に求めた。財閥解体で解散に追いやられた理化学研究所(理研)の第二会社として科学研究所(科研)を発足させた仁科芳雄博士に招かれ、1950(昭和25年)に入社。事務・管理部門の担当常務として科研の再建に尽力した。

 仁科芳雄は岡山県生まれの物理学者だ。1918(大正7)年、東大電気工学科卒業、理化学研究所に入り、1921(大正10)から1928(昭和3)年にかけて欧州に留学し、物理学者のアーネスト・ラザフォードやニールス・ボーアらに学ぶ。1931(昭和6)年から理研の主任研究員として日本に量子力学の拠点を作ることに尽し、宇宙線や加速器関係の研究で実績をあげた。

 日本の素粒子物理を世界水準に引き上げた仁科は、日本の現代物理学の父と呼ばれている。その研究室からは、朝永振一郎や坂田昌一など多くの学者が巣立っていった。仁科の影響の及ばない素粒子論の研究者などいないといわれるほどだ。1946(昭和21)年、理研所長に就任し、文化勲章を受章。1948(昭和23)年、改組後の科学研究所所長としてペニシリンを国産化した。

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