中村吉右衛門さんの悩み多き道程 「ガス管をくわえたことも」と苦悩を告白【2021年墓碑銘】

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「情がしっかり伝わってきた」

 歌舞伎界の大御所であり、時代劇「鬼平犯科帳」で広く名前を知られた中村吉右衛門さんにも、名跡の重圧に悩んだ時期もあった。人間国宝に認定されてもなお、一生修業を貫いたその姿勢を偲ぶ。

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 二代目中村吉右衛門さん(本名・波野辰次郎)は、歌舞伎界の大御所。2011年には人間国宝に認定された名優である。そしてテレビ時代劇「鬼平犯科帳」でも広く親しまれた。

 NHKの元アナウンサーで歌舞伎に造詣の深い山川静夫さんは思い出す。

「歌舞伎でも鬼平犯科帳でもせりふ回しが良いのです。静かな人ですが、一言一言が心に響き、情がしっかり伝わってきました」

 実は悩み多き道程だった。18年、日本経済新聞の「私の履歴書」で「ガス管をくわえたこともありました」と若き日の苦悶を告白して、衝撃を呼んだ。1966年に22歳で二代目を襲名したが納得のいく演技ができず、名跡を汚すと思い詰めた。

 44年生まれ。父親は人間国宝の初代松本白鸚(八代目松本幸四郎)、兄はミュージカルやテレビでもおなじみの二代目松本白鸚(九代目松本幸四郎)である。

 母親は、希代の名優と評された初代中村吉右衛門のひとり娘。「男の子をふたり産んで、ひとりに吉右衛門を継がせます」と約束して嫁ぎ、その通りになった。

地震で「待たれい」と大見得

 養子に入り、中村萬之助の名で4歳で初舞台。だが、10歳の時に養父の初代吉右衛門が他界。後ろ盾を失い、邪険にされ、実兄の華やかな活躍と比較された。

 早稲田大学文学部に進むと、フランス文学の研究を真剣に志した時期も。二代目襲名後も名跡の重圧に悩むが、不器用ゆえ地道に精進を重ねるしかないと決心。

 演劇評論家の上村以和於さんは言う。

「初代の芸を受け継ぎ、損なうことなく演じ、さらに芸を掘り下げた。役の心に迫り、役の人物になりきろうとしていました」

 例えば、流刑の島にひとり残った俊寛が遠くを見すえる姿は、望郷、諦観とさまざまな思いを凝縮していた。

 演劇評論家の渡辺保さんも振り返る。

「涙や笑いを狙った演技でも説明的でもない。自然と観客を引き込み、根底から心を揺さぶった。さらに登場人物がなぜこのような行動をしたのかまで無理なく伝わってきた。現代の私たちにも同じようなことがあると共感が広がりました。歌舞伎の型を崩さずに現代に通じる真の古典劇にしたのです」

「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助、「勧進帳」の弁慶、「熊谷陣屋」の熊谷直実など、当たり役は枚挙にいとまがない。

 公演中に地震が起き、観客が総立ちになった時には、すかさず「待たれい」と大見得を切ったとか。観客の動揺をユーモアで瞬時に鎮め、万雷の拍手を浴びた。

 69年、映画「心中天網島」で岩下志麻を相手に好演。今も高く評価される。

 篠田正浩監督は言う。

「原作は近松門左衛門の人形浄瑠璃です。現代の言葉で書かれたせりふが浄瑠璃の語りになるような表現力をお持ちだった。低予算なのに出演を快諾してくれた」

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