電通「鬼十則」を執筆した4代目社長「吉田秀雄」 人見知りする性格で愛称はゴジラ

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「鬼十則」で自らを叱咤

「鬼十則」制定のいきさつについて、後年、雑誌のインタビューで吉田は次のように語っている。

「要は士気の問題ですよ。ちょうど、昭和26(1951)年頃、うちは一つのヤマ場を迎えていた。ここでがんばらなければと、自分自身が真剣にぶつかっていた頃で、その時に感じたことを書きなぐっただけです。電話をすませた直後や、お客の帰ったわずかのひまをみつけて書きつけたので文章になっていませんが、この気持ちを社員にのみ込んでもらいたい、と思ってやったわけです」(『実業之日本』1961年1月号)

「鬼十則」は、社員に奮起を促がすためのものであると同時に、吉田が自らを叱咤する言葉でもあった。「電通の鬼」光永星郎を乗り越えて、「広告の鬼」とならんとする吉田秀雄の決意が込められていた。

 吉田が執念を燃やしつづけた広告業の近代化は、テレビ時代に実現した。「時間を売る」電波媒体を握った電通は、広告界の首位の座を不動のものにした。

 吉田は熱心に仕事をした。コーヒーが好きで1日に十数杯を飲んだ。酒はほとんど飲まなかった。中途半端に遊ぶヤツはいなかった。吉田精神を体で受け止めた人々は、みな広告が好きになった。

 吉田が入社した当時は「想像を絶する侮辱と蔑視」の時代であった。劣等感が渦巻く職場を、「広告の鬼」吉田秀雄は、就職を希望する大学生が殺到する人気企業に変貌させたのである。

死の床で早朝会議

 通信社の営業部門に過ぎなかった広告代理店を「マンモス電通」に飛躍させた「広告の鬼」吉田秀雄は、1963(昭和38)年1月27日、胃がんのため早世した。享年59だった。

 前年の6月25日、吉田は激しい胃痛に襲われた。直ちに東大病院に入院、手術を受けた。胃がんだった。

 それでも吉田は仕事を忘れなかった。手術から3カ月後の11月に再入院するまで、社の会議に出席している。早朝会議は死の床でも行われた。12月17日、病床で常勤役員会を開き、次年度の人事を議論している。これが吉田の最後の会議だった。

 政府は吉田に従四位・勲二等瑞宝章を贈り、その功績に報いた。広告界はじまって以来の破格の贈位だったが、マスコミをあげての追悼の方が、広告に生き、広告に死んだ吉田の生涯を映し出していた。

「鬼の十則」があまりにも有名だが、吉田はもう一つ重要な言葉を残している。

「責任三カ条」である。

 1953(昭和28)年3月に発表されたものだ。

一、命令・復命・連絡・報告は、その結果を確認し、その効果を把握するまでは、これをなした者の責任である。その限度内における責任は断じて回避できない。

二、一を聞いて十を知り、これを行う叡智と才能がないならば、一を聞いて一を完全に行う注意力と責任感を持たねばならぬ。一を聞いて十を誤る如き者は百害あって一利ない。まさに組織活動の癌である。消滅せらるべきである。

三、われわれにとって、形式的な責任論はもはや一片の価値もない。われわれの仕事は突けば血を噴くのだ。われわれはその日その日に生命をかけている。

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