電通「鬼十則」を執筆した4代目社長「吉田秀雄」 人見知りする性格で愛称はゴジラ

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電通トップは「猛獣使い」

 これがGHQに知れて再三呼び出された。吉田は「たまたま戦に負けて、優れた人材が路頭に迷っている。同胞として助けるのは当たり前でないか」と堂々と反論した。

 吉田は戦後の混迷期に不遇をかこっていた先輩新聞人たちに“雨宿り”の場所を提供したと言われた。

 吉田の部下だった人の証言だが、これは“頭脳スカウト”だったという。「陣頭指揮で社員教育をした。鉄砲の撃ち方を知らない人を入れて幹部にした。社員にしてから将校の教育をした」。「“知性派浪花節”だったが、天下国家を論じても、ちゃんと商売がくっついていた。そこは天才的だった」そうである。

 人の力をフルに使える人。その技量は猛獣使いの域に達していたという。

 業界話になるが、少し我慢していただきたい。

 電通はラジオの広告に熱心だったが、「広告会社の将来性に着目した吉田が、海外からの引揚者や国内の転職者の中から、有能な人材を大量に採用したからだ。従来の新聞や雑誌の広告だけでは増加した社員を食わせることができなかったため、ラジオの広告でカバーしようとした」(広告の歴史に詳しいアナリスト)。

 後述するが、吉田は自らラジオ局を申請するほどの熱の入れようで、1949(昭和24)年からラジオ広告の準備に入り、ラジオ広告要員を決め、米国のラジオ広告の研究を始めさせていた。

 ラジオ広告に積極的に取り組んだ電通は、以降、業界首位を独走する基盤を築いた、とされている。新聞広告が全盛の時代に吉田は“次の手”を打っていたことになる。

8時からミーティング

 電通の社史『電通100年史』は2001年7月に刊行された。

 吉田秀雄の業績は「第三編 飛躍の軌跡」として詳しくまとめられている。

《(戦時中から)電通に吉田ありとして、その存在を公告(ママ)界や新聞界に知られていた。終戦直後の混迷期にも、通信部門出身で広告業に通暁していなかった上田社長を補佐し、事実上電通をリードしてきたのは吉田であった》

 吉田が社長就任時に語ったのは、当時、社会的評価が低く見られていた「広告業の文化水準を新聞と同じまでに引き上げたい」ということだったという。

 吉田を囲む早朝ミーティングが始まり、社長以下全幹部が毎日、業務開始の9時より1時間早い朝8時に出社するようになった。

 社史はこんなエピソードを記している。

《「こんな早い時間に銀座を歩いているのはモク拾い(煙草の吸い殻拾いのこと)と電通の社員だけだ」との評判が生まれたという》

 社長になった吉田は、常務時代から構想を温めてきた民間ラジオ放送の立ち上げに挑むことになる。

《「これから始まる民間放送の仕事は、ちょっとやそっとのことではできない大事業である。命がけのことである。諸君のうち半数は死ぬであろう」。民間放送にやっと曙光(しょこう)が見えたころ、社内の会議で吉田はこうすごんだ》(前出『20世紀の日本の経済人』より)

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